2012年11月19日月曜日

スティーブンス『獄中記』4

  (Alexander Hamilton Stephens 1812-1883)

5月14日、クローフォードビル
今日は思い出深い日だ。母の命日なのだ。親族一同に看取られながら、母は静かに逝った。父はその前年の1826年に死んでいた。今でも心に深く残る思い出だ。
午前11時半に、列車はクローフォードビルに着いた。駅にはたくさんの群衆が詰めかけていて、その中には旧知の顔もあった。日曜日だったので、街の教会に立ち寄ることを許された。型どおりの礼拝を済ませたらすぐに去らねばならなかったが、街の人々は次々に私に握手を求めてくる。涙がこぼれそうだった。教会には私の親族や奴隷たちもはるばる駆けつけてくれていた。しかし残念なことに、妹夫婦や一部の奴隷たちの姿はなかった。そして兄弟のジョンは病に伏しているという、とても悲しい知らせも受け取った。それからケネディー大尉と、特に許可をもらった2人とで遅い朝食をとった。
友人のジョセフ・メイヤー氏の力も借りて、すぐにも訪れる出発のため、あらためて荷造りをした。とりあえずの着替えに、ベッドシーツ、そして敷物の提供を受けた。奴隷のヘンリーとアンソニーが、それらを手早くまとめてくれた。万事があまりにも滞りなく進んだので、まだ家にいるような錯覚を受けたほどだ。
それから親族たちと、今後の家のことについていくらか打ち合わせをした。あまりにいろいろなことで急かされ、混乱していた中ではあったが、私の奴隷たちはみな優秀なので、この辺りのことについて私は特に憂慮はしていなかった。しかしこの日、奴隷たちは一様に私との別れに泣かんばかりだった。私自身、あまりに深い悲しみの中にいた。
駅の群集は全然減らない。白人、黒人を問わず、古い友人たちが次々に訪れてくる。可能な限り、そうした人々と握手をし、別れを惜しんだ。今日のことを、私は生涯忘れまい。
私はケネディー大尉に、せめて列車が出発するまで、この友人たちと十分に話ができるよう、すぐそばでの監視をやめてくれないかと頼んだ。彼はそれを受け入れてくれた。
(翻訳 正会員 小川寛大)

2012年11月14日水曜日

12月15日、東京都江東区で「フレデリックスバーグ戦150周年記念大会」を行います

2012年12月15日(土)、全日本南北戦争フォーラムの「フレデリックスバーグ戦150周年記念大会」を下記の日程で行います。
正会員の皆様はふるってご参加ください。
部外の方々もご参加になれます。

全日本南北戦争フォーラム「フレデリックスバーグ戦150周年記念大会」
日時:2012年12月15日 午前10時~午後5時30分
場所:BumB東京スポーツ文化館 研修ルームB
東京都江東区夢の島2-1-3 東京メトロ有楽町線、JR京葉線、りんかい線「新木場駅」下車、徒歩10分 詳細は下記サイト
http://www.ys-tokyobay.co.jp/
参加費:正会員は会場使用料金を頭割り負担願います(500円前後を想定)、外部の方は無料
大会はお昼を挟みますが、昼食は参加者各自でご用意願います
ご参加につき、事前の申し込み、予約などは不要です

〈内容〉
第1部:映画『Gods and Generals』上映会
監督、製作、脚本:ロン・マックスウェル
製作総指揮:テッド・ターナー
撮影:キース・ヴァン・オーストラム
音楽:ジョン・フィリッツェル/ランディー・エデルマン
出演:ジェフ・ダニエルズ/スティーブン・ラング/ロバート・デュバル
カラー/上映時間231分

〈あらすじ〉
「Gods and Generals」は、ベストセラーになったジェフ・シャーラの同名小説を原作に、自身も南北戦争研究家として知られる、CNN創設者テッド・ターナーと、映画監督ロナルド・マックスウェルがつくり上げた一大歴史映画です。北軍軍人で「ゲティスバーグの英雄」として名高いJ・L・チェンバレン、南軍の総司令官としてアメリカ史上最も尊敬されている軍人である、ロバート・E・リー、そして「ストーンウォール」の異名を取り、戦争初期の南軍を支え続けた伝説の名将、トーマス・ジャクソンの3人の物語を中心に、フレデリックスバーグを山場に、開戦からチャンセラーズビルの戦いまでを、緻密かつ壮大に描ききる意欲作です。「分かれたる国家」の中で苦悩する人々の姿や、過酷極まりない当時の戦場を、徹底した歴史リサーチの下で完全に再現した映像には、歴史ファンならずとも引き込まれてしまうでしょう。撮影には、「歴史再現者」と呼ばれるアメリカ全土の南北戦争研究家が多数ボランティアで協力し、7,000人規模の横隊突撃をCG無しで完全再現。ロケは国立公園に指定されている実際の戦跡で行われ、完璧な「19世紀アメリカ」の姿が映画の中につくり上げられています。
 アメリカ史最大の悲劇を描く一大歴史ロマン「Gods and Generals」、この機会に是非、ご覧下さい。

第2部
事務局報告「2011年フレデリックスバーグ戦跡旅行報告」
昨年本会は、マナサスとフレデリックスバーグに旅行団を派遣し、南北戦争の戦跡の今を視察してまいりました。その時撮影した写真の紹介も交えながら、視察旅行の報告をさせていただきます。

会員研究報告
本会会員は皆、南北戦争には一家言ある研究者ぞろいです。今般、その日ごろの研究の成果を、1人15分程度の持ち時間で発表していただきます。発表希望者は随時、事務局までご連絡ください。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
問い合わせは本記事のコメントか、事務局のメール(uhh04659@nifty.com)までお気軽にお寄せください。
(事務局)

2012年11月9日金曜日

11/10に映画『リンカーン/秘密の書』鑑賞会を行います

 現在本邦にて劇場公開中の映画『リンカーン/秘密の書』。リンカーン大統領が、アメリカを裏で支配していた吸血鬼と戦うという歴史フィクションで、『リンカーンvsゾンビ』、『夜明けのゾンビ』とならぶ、「南北戦争スプラッター3部作」中の大本命と呼べる作品です。
 本会ではこの映画の鑑賞に会として出向き、その後に懇親会を開催するなどして、各自の南北戦争への理解をさらに深めてい きたいと考えています。
 日程は11月10日の午後。東京都新宿区の映画館で予定しています。会員、非会員問わず、ご関心のある方は事務局までご連絡ください。詳細は下記まで。

『リンカーン/秘密の書』(Abraham Lincoln: Vampire Hunter)
監督:ティムール・ベクマンベトフ
出演:ベンジャミン・ウォーカー ドミニク・クーパー アンソニー・マッキー
2012年 アメリカ映画 105分
(あらすじ)
少年時代、リンカーンは母親をバンパイアに殺され、復讐のために戦いの術を学びはじめる。やがてリンカーンは、奴隷制度を隠れ蓑に“食事”を手に入れるバンパイアと、それを利用して金儲けを企む政治家たちの姿を目の当たりにし、昼は政治家として奴隷解放を訴え、夜は斧を手にしたハンターとしてバンパイアと戦うようになる。

 (上映会場)
〒160-0022 東京都新宿区新宿3丁目15番15号
新宿ピカデリー
http://www.shinjukupiccadilly.com/index.html
(本会での鑑賞時間)
11/10、14:25~ 鑑賞終了後、懇親会を予定
(費用)
2,000円 入場料として映画館に支払い
(本会への鑑賞参加申し込み)
本記事のコメントか、事務局へメール(uhh04659@nifty.com)でお知らせください。
(事務局)

2012年10月6日土曜日

10/28に映画『夜明けのゾンビ』鑑賞会を行います

 10/27~11/2の日程で東京・渋谷の映画館「シアターN」で行われる「“シッチェス映画祭”ファンタスティック・セレクション」にて、南北戦争の時代を舞台にしたゾンビ映画『夜明けのゾンビ』が公開されます。
 本会ではこの映画の10/28、13:30~の回に会として鑑賞に出向き、その後に懇親会を開催するなどして、各自の南北戦争への理解をさらに深めていきたいと考えています。会員、非会員問わず、ご関心のある方は事務局までご連絡ください。ともにこの“怪作”を鑑賞し、また語り合いましょう。

『夜明けのゾンビ』(EXIT HUMANITY)
監督:ジョン・ゲデス
出演:マーク・ギブソン アダム・セイボールド ジョーダン・ヘイズ
2011年 アメリカ映画 113分
(あらすじ)
アメリカを二分した南北戦争期に世界中でゾンビが大量発生した! 家族を失ったエドワードが放浪の先で見たのは、ゾンビよりも凶暴な、生き残った人間たちの姿だった。
(上映会場)
〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町24−4 東武富士ビル2F
シアターN
http://www.theater-n.com/movie_sitges.html
(本会での鑑賞時間)
10/28、13:30~ 鑑賞終了後、懇親会を予定
(費用)
1,500円 入場料として映画館に支払い
(本会での鑑賞参加申し込み)
本記事のコメントか、事務局へメール(uhh04659@nifty.com)でお知らせください。



2012年9月4日火曜日

9月29日、東京都江戸川区でリンカーン大統領に関する勉強会を行います。『Abraham Lincoln vs Zombies』を上映

全日本南北戦争フォーラム主催で、リンカーン大統領についての勉強会を、下記の日程で行います。
正会員の皆様はふるってご参加ください。
部外の方々もご参加になれます。



全日本南北戦争フォーラム勉強会「リンカーン」
日時:2012年9月29日 18時00分~
場所:東京都江戸川区 篠崎文化プラザ 第2講義室
東京都江戸川区篠崎町7-20-19 都営地下鉄新宿線篠崎駅直結 詳細は下記サイト
http://www.shinozaki-bunkaplaza.com/
参加費:正会員は会場使用料金を頭割り負担願います(500円前後を想定)、外部の方は無料
ご参加につき、事前の申し込み、予約などは不要です 

本年秋以降、なんとリンカーン大統領に関する映画が3本も、立て続けに本邦で公開される予定です。リンカーン暗殺事件とその犯人たちの裁判を描いた『声をかくす人』、リンカーン大統領は吸血鬼ハンターだったとする伝奇作品『リンカーン/秘密の書』、そしてスピルバーグによる骨太の歴史大作『リンカーン』です。いかに南北戦争150周年といえど、画期的なことです。われら南北戦争ファンは、これらの公開ラッシュを万全の態勢で迎えねばなりません。
言うまでもなく、リンカーンという人物への理解なくして南北戦争を語ることはできません。しかしその評価は、奴隷解放の聖人から強圧的な独裁者までさまざまで、今に至るまでまったく安定しません。南北戦争を語るにおいて、最も基本にして深遠な存在、それがエイブラハム・リンカーンであるといえます。
今回本会では、その南北戦争の最も核となる人物について、あらためて語り合う場を設けてみたいと思います。勉強会は自由討議の形をとり、銘々がそれぞれのリンカーンを像を語り合う中で、この人物が真に成し遂げたかったものに迫ってみたいと思います。
なお勉強会に先立っては、150周年ブームの中でも恐らく絶対に本邦公開はないであろう、 『リンカーン/秘密の書』の便乗映画作品『Abraham Lincoln vs Zombies』の上映を行います。合わせてお楽しみいただければと思います。

第1部:映画『Abraham Lincoln vs Zombies』上映会
監督:リチャード・シェンクマン
出演:ビル・オバーストJr. ジェイソン・ヒューリー ドン・マクグロウ

2012年 アメリカ映画 日本未公開 90分
(あらすじ)
アメリカ合衆国16代大統領として南北戦争を指揮するエイブラハム・リンカーンのもとに、とんでもない報告が届く。南軍の砦を偵察しに出た騎兵隊が、ゾンビに襲われて全滅したというのだ。その報に半信半疑な周囲をよそに、リンカーンは真剣な覚悟を固める。彼は幼少期、ケンタッキーの田舎で両親をゾンビに惨殺されていた経験の持ち主だったのだ。南軍よりも優先して取り組まねばならぬ人類の敵、ゾンビの討伐に、リンカーンは自らで当たる覚悟を固める。アメリカを揺るがす内乱の中で、大統領は人類社会を救うことができるのか…。
あらすじからして荒唐無稽、支離滅裂。画面から漂う安っぽいB級テイストは、『リンカーン/秘密の書』に便乗するためだけにつくられたような感がプンプンで、見る者をある意味で酔わせます。しかしこんな企画が通ってしまうのが、南北戦争150周年に沸く今のアメリカだとも見るべきでしょう。大きな首刈鎌をふるって自らゾンビ狩りに挑むリンカーンの脇を固めるのは、エドウィン・スタントン陸軍長官、南軍のストーンウォール・ジャクソン将軍、そして若き日のパット・ギャレットやセオドア・ルーズベルトという、噴飯モノの人々です。ここまで阿呆らしいと、これは逆に一見の価値アリとも思えてきます。アメリカ人にとってリンカーンとは何なのか。公開が待たれるスピルバーグの大作とは逆の意味で、この作品はそれをしみじみと教えてくれるのではないでしょうか。リンカーン関係の映画が連続で封切られていく今年の秋以降ですが、本作の日本公開はまず見込めないでしょう。この機に、この会こそで、この世紀の怪作の真価を見極めてはみませんか…?

 第2部:リンカーン勉強会「解放者? 独裁者? それともバンパイアハンター?」
 『Abraham Lincoln vs Zombies』の余韻もそのまま、参加各位のリンカーン像を率直にぶつけ合うところから始めたいと思います。会場にはDVD、CDの再生環境を備えますので、映像、音声史料の持込なども大歓迎です。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
(事務局)

2012年8月31日金曜日

スティーブンス『獄中記』3

5月13日
早朝、アップトン将軍にたたき起こされた。ノドの痛みが引かず、ほとんどしゃべれない状況だというのに。
将軍は人払いをすると、私の今後のスケジュールについて話し始めた。やはり目的地はワシントンとのことだ。逃亡中だった、わがアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デービス氏は逮捕され、クレメント・C・クレイ上院議員も北軍に出頭した。彼らとまとめて、私もワシントンへ護送されるのだそうだ。
ただ将軍は、ワシントンまでどうやって行くのかについては選ばせてくれるのだという。ダルトンからの鉄道で向かうか、サバナまで出て海路を取るかの2通りから選べるとのこと。私は海路を選びたかったが、同じく海路を希望しているというデービス氏と同道するのは嫌だと、率直に将軍に告げた。彼は、軍で手配できる船が1隻しかないので、別便を仕立てることは不可能だが、なるべく離れた船室を割り当てるよう努力すると言ってくれた。この日は彼と話す機会がたびたびあったが、彼は常に礼儀正しく、私は少なからず好感を持った。
昨日と同じく、友人たちが訪ねてきてくれた。ダンカン氏からは、ウィスキーの差し入れがあった。また彼は、ヨーロッパの金融会社に預けてある資産のことを話し、その金について、私が自由に活用できるよう手はずを整えているところだと言った。私は心底うれしかったが、もう私には、そんな大金を必要とする人生は用意されていないだろうと断った。ただ彼からは、それでも自分の望む手続きだけはさせてほしいとの申し出があった。
クーパー少佐が、パウエル医師とシモンズ医師、そして数人の女性たちを呼んでくれた。すぐそばに迫った別れに、彼らは目を真っ赤にしていた。パウエル夫人とスラッシャー夫人が、私のベッドのシーツを清潔なものに取り替えてくれた。
フェリックスが、トゥームズ将軍と別れた後の話を聞かせてくれた。将軍はアメリカを去るに当たって、アーカンソーの政治家だったセバスチャン氏にフェリックスを売ったとのことだ。戦争の終結まで、彼は同氏のコックを務めていたそうだ。セバスチャン氏はメンフィスで健在だそうだが、さすがに奴隷は保有し続けられない。フェリックスも含めてセバスチャン氏の奴隷は、北部の医師であるリトル氏の使用人として働くこととなったそうだ。
フェリックスは私に、ピアースの近況を聞きたがった。ワシントン時代に、私の身の回りの世話をしていた奴隷の少年だ。確かに、フェリックスとピアースは非常に懇意だった。私はフェリックスに、ピアースはもう数年前に自由黒人の身分にしてあげたことを話した。今は確かメーコンにいるはずだとも。ぜひ手紙を書いてあげてほしい、そうすれば彼も喜ぶはずだと付け加えた。
アンソニーが、今後の旅路にフェリックスを同行させてはどうかと提案してきた。しかしそれはリトル医師の判断もあるだろう。それに、私自身の運命が今後どうなるものか、何も分らない。
夕方にアイオワ連隊のピーターズ大佐がやって来た。そういえば戦争前、アイオワ選出のG・W・ジョーンズ上院議員に紹介されたのを覚えている。彼も再会を喜んでいるようで、昔話で盛り上がった。
窓の外には夜の帳が下りようとしていた。私に空を飛ぶ鳥の目があれば、捕われの身である私のみじめな姿から何を見て取ることができるだろう。ああ、見えてきたのは1860年のダグラスの演説だ。私は彼の主張に、恐ろしい何かを感じていたのだ。今の苦境に比べれば大したことではないものの、聞いていて心臓が締め付けられるようだった。あるいは私の今の苦しみとは、そうした主張がはびこっていくのに何の手も打てなかったことへの罰なのかもしれない。
皮肉なことに、そうした回想に浸っている間、私の肉体は少しの安息を得ることができた。そのような回想を頭に浮かべるということをもって、私を南部の裏切り者とする意見もあるかもしれない。しかし私は今、北部に逆らった南部連合を代表する1人として、ここに捕われている。もっとも、私は南部の政府内でほとんど何もしなかった。当時はそれが正しいことだと思っていたのだが、辞表を書いていた方がよかったのだろうか。
午後9時、アップトン将軍が、11時に列車が発車すると伝えに来た。自宅に手紙を書く最後のチャンスだろう。もう少し衣服がほしい旨、書きつづった。これを見た家族が、クローフォードビルまで来てくれればいいのだが。リントンにも自分の状況を知らせる手紙を書いた。
アップトン将軍に、アンソニーの弟であるヘンリーのことについて話した。彼らの母親はリッチモンドにいる。できれば連れて行ってやりたいと。将軍は許可してくれた。ギルピン大尉が私のサインを欲しがったので、それに応じた。11時を少し過ぎたころ、私を乗せた列車は走り始めた。

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Stephen Arnold Douglas (1813–1861)

文中に出てくる1860年に演説したダグラスとは、南北戦争開戦前夜の奴隷擁護派随一の論客にして、リンカーンの最大の政敵だったスティーブン・ダグラスのことです。1860年の大統領選ではリンカーンと激しく争った相手です。ただ自由州であったイリノイ州出身だった彼は、南部人ほど露骨には奴隷制を擁護することができず、この時の主張は率直に言って曖昧模糊かつ複雑怪奇。選挙戦にも敗れます。スティーブンスは生粋の南部人として、ダグラスの主張を非難しているわけです。しかしダグラスのような奇形的政治主張から、スティーブンスはそういうものを生んでしまった南北のどうしようもない対立の根深さに絶望していたのかもしれません。
(翻訳・解説 正会員・小川寛大) 

2012年7月7日土曜日

スティーブンス『獄中記』2

5月12日、ジョージア州アトランタ
これまでの人生の中で、最もあわただしい1日だった。この日を境にして、「容疑者」である私からは、自由というものが完全に失われた。
夜通し走った列車がアトランタに着いたのは朝の8時半。気分は非常にすぐれなかった。すぐにアップトン将軍の司令部に連行されたのだが、そこで意外な人物と再会した。トゥームズ将軍の所有していた奴隷で、私とも親交のあったフェリックスだった。私と彼は、思わぬ再会に共に相好を崩し、力強い握手を交わした。彼は今はコックをしていて、その腕前はなかなかのものと評価されているそうだ。
アップトン将軍はメーコンへ出かけていて留守だった。代わりに司令部要員のギルピン大尉が出てきて、私に司令部の一室をあてがった。大尉はフェリックスに朝食の準備を命じ、すぐにハムとコーヒーが供された。
監視つきながら、街の様子を見て歩くことができた。戦争の爪あとは深く、どこもかしこも滅茶苦茶だった。私の姿を認めて、声をかけてくる何人かの人があった。しかし、彼らのあまりにみすぼらしい姿に胸が張り裂けそうで、私は何も言ってやることができなかった。
アップトン将軍の部下であるアイラ・R・フォスター将軍が私に紙と筆記具をくれたが、勝手に手紙を書いたり、人と会ったりすることは厳禁だという。G・W・リー大佐が私の「管理担当」だそうで、彼とは自由に話をしていいというが、彼と話すことなど何もない。そんな折、知人のジョン・W・ダンカン氏が特別の許可を取って私を訪ねてきてくれた。先ほどの外出で私の姿を見たアトランタの友人、知人の多くが、非常に心配してくれているのだという。
昨夜からのノドの不調が一向に治らない。セイント大尉が軍医を呼んでくれた。軍医は特に心配するほどのことではないという。クーパー少佐が薬として、ウィスキーをふるまってくれた。
私はいざということもあろうと、自宅から590ドルほどの金を持ってきていた。ところが知人のギップ・グリアー氏から、私を心配して20ドルの現金が届けられた。ギルピン大尉も、その好意を受け取っておくべきだという。グリアー氏の手紙には、必要ならばさらに追加で100ドルほど用意できるとあった。いくらなんでも、そこまでは甘えられない。ダンカン氏も、望むものがあれば何でも手配すると言ってくれたが、不足しているものは何もないと答えた。
以上のことは、すべて北軍の監視下で行われた。フォスター将軍は、軍でも私の要望には可能な限り応えると言ったが、私は何もいらないと返した。見ての通り、南部が敗れた今でも、南部の友人たちはここまで私に尽くしてくれる。なぜ北軍からさらにもらわねばならないのだ。
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ロバート・トゥームズ
Robert Augustus Toombs 1810-1885

前回からしばしば名前の出る「ロバート・トゥームズ将軍」とは、スティーブンスと同じジョージア州出身の政治家です。南北戦争開戦前は同州選出の下院議員を務め、南部連合国樹立後は初代国務長官に就任。南部を代表する政治家の1人と言っていい存在でした。
しかし民主党の政治勢力が中心となって建国された南部連合の中にあって、彼は共和党の系譜につながるホイッグ党の政治家として身を起こした存在で、政権内ではしばしば孤立。特にデービス大統領との仲は最悪で、結果、彼は早々に国務長官の地位を投げ出し、南軍の軍人として戦地に出征するのです。彼は北バージニア軍の旅団長として活躍。戦争後半は軍務から離れ、在野の一言居士としてデービス政権の無能を攻撃し続ける生活を送っています。
戦争終結時、彼は北軍による逮捕を恐れてヨーロッパに逃亡。このスティーブンスの獄中記が書かれたころは、アメリカにいません。帰国したのは1867年で、南部の政治の主導権が再び南部人の手に帰していく中、ジョージアの政界を隠然と支配し続ける存在として君臨します。ちなみに、スティーブンスもデービス大統領の政治手法には批判的だった人物で、トゥームズとは固い友情で結ばれていました。
(翻訳・解説 正会員・小川寛大)

2012年7月5日木曜日

ラッパ将軍バターフィールド

ダニエル・バターフィールド
(Daniel Adams Butterfield 1831-1901)

先日開催しました『ゲティスバーグの戦い』上映会の上映作品中、登場人物であるトム・チェンバレンが、メーン州第20連隊が所属する旅団の信号ラッパについて語るシーンがありました。本筋には何ら関係のなかった話ですが、参考のため、そのトムの話に出たダニエル・バターフィールド将軍の小伝を掲載します。本会会員がかつてほかの所で執筆したものを、そのまま転載するものです。

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アメリカ軍の軍隊ラッパに「Taps」というものがある。葬送の際に用いられるもので、「実用音楽」たる信号ラッパながら、ゆったりとした哀愁のある名 曲である。このラッパ譜ができたのは南北戦争中のことなのだが、作ったのは軍楽隊員ではなく、ダニエル・バターフィールドという北軍の将軍だった。


バターフィールドの父は、今なおアメリカに存続する大企業アメリカン・エクスプレスの創設者で、1831年ニューヨークに生まれた彼も、大学を出てその会社に勤めるビジネスマンであった。
1861年春、そんな彼は南北戦争の勃発と共に北軍に志願。民兵団に参加していたくらいで、特段それまで軍事教育のようなものは受けたことが無かった彼 だが、その年の秋にはトントン拍子で旅団指揮官たる将軍(准将)までになっていた。もっともこれは特に怪しむことではない。当時のアメリカには常備軍が 10,000人程度しか存在しておらず、開戦に際し急ごしらえで軍を仕立てるために、土地の名士などを能力、経験抜きで高級将校にして従軍させるような事 例が多くあったのである。そういった将校のほとんどは使い物にならなかったのもまた事実なのだが、バターフィールドは、J・L・チェンバレンやS・ムルホ ランドらと並ぶ、そういった中の数少ない例外の1人だった。
1862年6月、北軍のポトマック軍司令G・マクレランは、隷下部隊に対しヨークタウン半島を経由しての南部首都リッチモンド攻略作戦を下令。い わゆる半島戦役、「リッチモンド手前7日間の戦」が始まる。しかしこの作戦は失敗だった。南軍の中核、北ヴァージニア軍を完全に掌握した名将R・E・リー と、その片腕「ストーンウォール」・ジャクソンの巧妙な防御作戦の前に、マクレランは結局軍を退かざるを得ない状況に追い込まれてしまうのである。
翌7月、半島戦役に参加していたバターフィールドと彼の部隊は、ヨークタウン半島から撤退してヴァージニア州のハリソンズ・ランディングに駐屯してい た。彼自身はこの戦役の中で、後に名誉勲章を授与されるほどの働きを見せて奮戦したのだが、多くの部下を失った悲しみが、彼と部隊とを包んでいた。半島戦 役に散った将兵の数は、両軍合わせて約11,000。バターフィールドは部隊のラッパ手、オリバー・ノートンの補助を受けながら、彼らを追悼するための 曲、「Taps」を作曲。後、軍上層部にもその出来のよさが認められて全軍で用いられるようになり、この21世紀の現在に至っても「Taps」はアメリカ で一番有名なラッパ曲として健在である。
バターフィールドは後、軍司令部より現場から引き抜かれ、参謀としてゲティスバーグ戦やアトランタ戦などに参加。上層部からの覚えは相当めでた かったようだが、一般将兵からは「リトル・ナポレオン」のあだ名を賜っていた。褒め言葉ではない。尊大で口うるさいところから付けられた名だという。また 「Taps」以外にもいくつかのラッパ曲を作曲していたりしたらしい。
戦後は一時募兵局でデスクワークにいそしんでいたが、やがて軍を退職してビジネス界に復帰。ただ軍との関係は終生続き、高名な将軍たちの葬儀委員長など をしばしば買って出ている。1901年に死去するが、その墓はなぜか、終生一度も正規の軍事教育を受けたことが無いにも関らず、ウェスト・ポイント、米陸 軍士官学校にある。
(正会員 小川寛大)

ゲティスバーグ戦149周年 映画『ゲティスバーグの戦い』上映会報告

「諸君、ここが連邦の左端だ。決して退くな!」
(『ゲティスバーグの戦い』リトル・ラウンド・トップの1シーン)

先日告知させていただきましたとおり、7月1日のゲティスバーグ戦149周年記念日に、東京都新宿にて映画『ゲティスバーグの戦い ‐南北戦争運命の三日間‐』の上映会を開催いたしました。
突然の告知で、かつ4時間以上もある大作であり、人はほとんど来ないだろうと事務局では考えていたのですが、結果として会員、非会員の方あわせて5人もの方々に集まっていただき、盛大裡に終わらせることができました。正会員として登録していただいた方も1人おられ、これで本会は7人体制となりました。大変ありがとうございます。
上映会終了後、正会員3人にて、場を上映会場そばの喫茶店に移し、今後の会運営について話し合いを持ちました。その結果、ゲティスバーグ戦150周年となる来年、会として訪米団を組むことを正式に決定いたしました。訪米時期などについては今後さらにつめ、年末から年明けにかけて正式発表したいと思いますが、多くの方々とともにアメリカ訪問ができれば、これ以上ない幸せと思います。
その後、「リーはやはり名将ではない」「スチュアートの失態と騎兵戦の現実」「アイリッシュ旅団は本当に悲劇の美談なのか」「対英仏外交戦からみるマクレランの無能」「南北戦争をダメにしたナポレオン信仰という病」といった懇談を交えて散会といたしましたが、ご参考のため、その懇談の一部を文字化して提示してみたいと思います。このような会話を楽しんでいる集団です。なお、この書き起こしについては、事務局に一切の文責があります。

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A「映画『ゲティスバーグ』は、やはり南軍側の主人公がロングストリートだから、リーをそう評価した描き方をしていない。むしろ見ようによっては愚将とでもいえるような感じになっている」
B「ただピケット・チャージはやはり愚策だから。なんであんなことをしてしまったのか」
C「そう、あれをやってしまったという事実がある限り、リーは決して名将ではない。そもそも、彼はアンティータムも失敗している。北部へ遮二無二攻めるという戦略は、彼が企図して推進したことなんだから、それに失敗している時点でね。南部に欠くべからざる人だったし、素晴らしい人格者なんだが、やはり名将というのとはちょっと違う」
A「あせっていたんだろうか。そもそもゲティスバーグ2日目で、本来の戦略的意図は完全に破綻しているわけだし」
C「だったら2日目で軍を退くという選択肢もあったんじゃなかろうか。北部でそれをやったら軍司令官解任だろうが、南部では許されたと思う」
B「いや、リーはもうこれを逃したら、南部が攻勢に移る機会はないと考えていたはず。何かやらなきゃいけなったんだろう」
C「南軍の中では、際立って異様な戦略を持っていた人だから」
A「やはりそこであせって退けなくなったのか」
B「にしても中央突破でピケット・チャージは筋が悪すぎる」
A「スチュアートが勝手に戦場を離れていたという点、映画ではそう強調されてはいなかったが、重要なポイントだ」
B「軍の目である、重要な斥候部隊が完全に行方不明だったんだから」
C「ただ南軍の部隊に相互連絡がないというのは、もうお家芸だから。半島戦役では斥候部隊どころか、重要な実戦部隊が戦場で突然行方不明なんてことがあったし。ファースト・ブルランだって…」
B「あれは南軍の大勝とされてるけれども…」
C「あの戦闘の決着したその時点で、南軍側に『われわれは勝った!』と正確に把握してた人間なんていない。部隊間の横の連絡は何もないし、上級司令部に情報を上げる者だっていない。単に『北軍が撤退した』というだけで、南軍側は自分たちが勝ったことも分かってなかったはず。ましてや追撃なんてとても…」
A「でも北軍はわりと初期からそういう点がきちんとしている」
C「よくも悪くも役所的、官僚的な陣営なんだ」
B「あと、南軍というのは、結局土地の名士である奴隷農園主が、地元の若い者を集めて結成した、悪い意味での『村の消防団』みたいなもの。それで指揮官は金持ちのボンボンで、まあ社会性がない。でも北軍の指揮官というのは、戦争が始まる直前まで、弁護士だったり銀行家だったり、鉄道会社に勤めてたりと、きちんとした社会経験のある人が多い」
C「社会人経験って、こういうところでも大事なんだということか」
A「ところで『Gods & Generals』もそうだが、この映画シリーズはアイリッシュ旅団の扱いがなかなかいい。ピケット・チャージを支えきったのは、ニューヨーク州第69連隊だったような描き方だし」
B「『Gods & Generals』ではフレデリックスバーグ戦が泣けた。南北に分かれた同じアイリッシュ部隊が泣きながら撃ち合うという…」
C「まあ、映画としてはね、なかなか泣かせる展開だけれども、あそこまで美化できるものかなあというのはある。もともとアイルランドには、アルスター地方(北アイルランド)とそれ以外の地域の、壮絶な地域間対立があった。また、ニューヨーク州第69連隊を中心としたアイリッシュ旅団は、トマス・マハーという、後のIRAの系譜にもつながる革命家が率いていた部隊で、非常に政治的な背景がある。アイルランド本国人だって、みんながマハーのような人物を肯定しているわけじゃない。ジャガイモ飢饉によるアイルランド移民の大流出というのは、そういうアイルランド国内の対立構造を、他国にそのまま移植してしまったような現実もあるわけで…」
B「フレデリックスバーグで撃ち合ったのにも、何かそれなりの理由があるんじゃないかと」
C「そういうこと。ちゃんと調べなきゃいけない話だが、単なる悲劇の美談にしていいのかというのはある」
A「アイルランドつながりということで、イギリスの話題を。映画に南軍陣営にいるイギリスの観戦武官がいたけれども…」
B「まあ、これは後知恵で言うわけだが、英仏が南部の独立を承認することなんて、絶対にありえない」
A「そうだろうね」
C「それにはまったく同感なんだが、でもやっぱりそれは後知恵。当時としては、やっぱりリンカーンは英仏の動向が怖くて仕方なかったと思う」
B「それは確かに」
C「だからとにかくこの戦争を早急に片付けなくちゃいけないと。兵隊の練度とか、純軍事的条件とか、度外視にしてもいい。とにかくリッチモンドめがけて、矢継ぎ早に兵隊の血肉をぶつけて、南部を一刻も早く叩き潰さないとというのがあった」
B「それゆえのあの犠牲と」
A「だからやっぱり、マクレランは評価されないわけで」
B「グラントのようなのが、リンカーンにとっての英雄だったわけだ」
C「マクレランというのは、本当にナポレオンになりたかったのかな」
A「それはそうだと思う。これはマクレランに限らず、南軍側の将軍にも多いんだが、とにかくやたらと機動戦をやりたがる」
C「ああ、フランク(側面)、フランクと…」
B「ナポレオン型だね。ただ、南北戦争でそれはほとんど成功しないんだけど」
A「とにかく状況がナポレオン時代とはまるで違う。政府のあり方も違うし、武器の性能も違う。国土のあり方だって違う」
B「そういう何もかも違う場所で、ナポレオン流の精緻な『軍事技術ショー』をやろうとした将軍がたくさんいて、そして彼らはまったく成功できずに、えらい目にあって表舞台から消えていく」
A「ナポレオン信仰というのは、南北戦争において罪深いと感じるね」
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(事務局)

2012年6月28日木曜日

スティーブンス『獄中記』1

 (Alexander Hamilton Stephens 1812-1883)

アレクサンダー・スティーブンスはアメリカ連合国の副大統領で、「奴隷制は神の認める絶対善である」とまで主張し、南北戦争を戦う南部の精神的支柱として活躍した大政治家でした。
しかし彼は、貧しい家に生まれ、自分の才覚で成り上がって奴隷農園主となり、南部ジョージア州を代表する政治家に成長していったという、世襲の大農園主が多かった一般の「南部貴族」とは少し違った経歴の持ち主でした。よって彼は、政治信条は違えども、ともに貧困階級から成り上がったリンカーンとは実に馬が合い、また南部の大統領、ジェファーソン・デービスとは、ほとんど犬猿の仲という人物でした。
南北戦争終結後、彼は北軍に逮捕され、約半年間、ボストンの監獄で生活を送ります。かれはその間、獄中記をしたためており、これは南部の政治家が戦後にどのような心境に至っていたのかを知る、一級の資料とも言われています。
本会ではこの投稿を皮切りに、その獄中記を少しづつ翻訳し、掲載していきたいと思っております。南北戦争史に関心のある皆様方に取り、何かの参考になれば幸いです。

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1865年5月11日(火)、ジョージア州リバティーホール
心地よい眠りの後、かなり早くに目が覚めた。とても清々しい朝だった。アセンズ郡から、ヘンリー・フル氏の子息、ロバートが訪ねて来ていて、昨夜からわが家に泊まっていた。
朝食の後、何人かに手紙を書いた。それからロバートとともに、トランプに興じていた。その時だった。奴隷のティムが部屋に駆け込んできて、こう叫んだのだ。
「旦那様! ヤンキーが来ます! もうたくさんの兵隊が町に侵入していて、軍馬の声や銃剣のガチャガチャする音が響き渡っています」
いずれこうなろうとは、うすうす感づいていた。 南部は負けたのだ。私はロバートに言った。
「彼らはすぐここに来る。私物を整理しておこう」
そう言い終わらないうちくらいに、私の眼は、わが家に近付いてくる北軍の将校をとらえた。家のドアは開いていた。将校はそのまま家に入ってきて、私に言った。
「スティーブンスか?」
そうだと返事をすると、さらに念を押された。
「アレキサンダー・ハミルトン・スティーブンスで間違いないな?」
それが私の名前である、と答えた。
将校が続けた。
「お前を逮捕するよう命令が出ている」
彼に名前を問うた。アトランタに駐屯するアップトン将軍配下の、アイオワ州第4騎兵連隊所属、セイント大尉で、ここにはネルソン将軍の指令で来ていると言う。彼は私に命令書を提示した。私とともにロバート・トゥームズ将軍も捕らえよとの内容だった。
セイント大尉の任務は、私をクローフォードビルまで護送することだという。それからどうするのか。ワシントンへか。アップトン将軍の司令部に連行されるのか。
こうなることはとっくに予想していた。自分から出頭すべきかともさえ思っていた。そうセイント大尉に告げ、私の“旅路”はどのようなものになるのだろうかと聞くと、私を護送するための列車を用意しているとのことだった。
私はティムを呼び、カバンに着替えを詰めて持ってきてほしいと頼んだ。
「分かりました」
そう答えたティムに、どれくらいの時間で用意できるか問う。「数分でやります」との即答があった。同じ奴隷のハリーもやってきて、非常に驚き、そして悲しんでいた。
セイント大尉から、希望するなら奴隷を1人帯同してもいいとの言葉があった。そこで彼に、私は最終的にどこへ連れて行かれるのか問うた。「最初はアトランタだが、最終的にはワシントンだろう」との答だった。ならばとアンソニーを呼んだ。彼はリッチモンド出身で、母親はまだ同地にいる。ワシントン方面にも詳しかった。すぐに出発の用意をするよう命じた。
セイント大尉は従卒とともに、朝食をとるため一時わが家を退去した。そのほっとした束の間に、私は兄弟のジョンとその家族のことを思い浮かべた。何の知らせもなく私が彼らの前から消えたら、彼らはどう思うだろうか。
セイント大尉は10時に戻ってきた。そして「15分以内に出発するぞ」と言う。友人や奴隷たちの口から嗚咽が漏れた。私の心も、涙であふれた。
私はセイント大尉に、兄弟へ手紙を書く許可を求めた。幸い、彼はそれを許してくれた。ジョンとその家族は、1週間ほど前に私を訪ねてきて、2日前に帰ったばかりだった。以下はその手紙の写しである。

親愛なる兄弟よ。
アイオワ州第4騎兵連隊のセイント大尉が、私を逮捕しにやってきた。トゥームズ将軍もともにだそうだ。アトランタを経て、おそらくワシントンへ連れて行かれる。
またお前に会える日が来るのかどうか、今はまったく分からない。だが、神はどんなことがあろうとお前を支えてくれるだろうし、また私自身も救ってくださるだろうと信じる。神の愛が、お前とその家族を救ってくださいますように。また私自身も、お前とコスビー、ディック、ジョンソン、およびすべての友人たちを常に思っている。
もうこれ以上書く時間がない。愛している。
お前の最も親愛なる者
アレクサンダー・H・スティーブンス

この手紙を奴隷のリントンとハリーに預け、私が去ったら、すぐにスパルタのジョンへ送るよう命じた。
しかしセイント大尉はこの段になって、私が手紙を送ることに反対しだした。私は彼に手紙の文面を見せ、決しておかしなことを書いているのではないと証明したが、それでも彼の考えは変わらなかった。私は泣いてしまいそうだった。あて先が違っていたらどうだったろう。たとえば妹夫婦とか、友人たちとか。
護送列車の周りには、多くの人が集まっていた。皆、悲しそうな表情をしていた。嗚咽の声も聞こえた。
私が駅の待合室を出ると、列車は数百ヤードほど後退し、何人かの兵士が乗り込んだ。私が逃げ出さないように見張る役目を負っているらしい。私が列車に乗り込み、出発する段になると、その時の何人かは列車から降りた。列車ははそのまま、バーネット郡まで止まらずに走った。そこで汽車を取り替え、ワシントン郡へ向けて再び走り出した。
しかし4マイルほど走ると、列車のスピードが突然落ちた。列車の責任者は、われわれに下車するよう求めた。その地点のそばにあった小屋が急きょ接収され、私はそこに連れて行かれた。約20人の兵士が、私の監視要員として周囲を固めていた。
セイント大尉が「1時間ほどで戻る」と言い残し、どこかへと去った。しかし彼は日が暮れても戻らなかった。そして突然、豪雨になった。こんな雨は数週間ぶりだった。
小屋の主人が、肉のフライとコーン・ブレッドを出してくれた。「これができる精一杯で…」と彼は言った。私は空腹ではなかったのだが、その心遣いが非常にうれしく、ありがたくいただいた。
夜になっても大尉は戻らなかった。主人は今度は夜食を出してくれた。彼の夫人も非常に優しい人で、私は彼らの心遣いに本当に申し訳なくなった。
深夜と言える時間になって、汽車の蒸気機関が再びけたたましい音を立てるのが聞こえた。セイント大尉の「外出」が奏功したのだろうと私は思った。
大尉が私の前に戻ってきたので、いったい何か起こっていたのかと問うたが、彼はまともに答えようとせず、私に再び列車へ乗るよう命じた。アンソニーも、再び荷物番だけに専念できるようになった。ただ雨のおかげで大地は濡れそぼっており、私の靴もぐっしょりと湿っていた。雨は冷気を運んできて、私はノドをやられ、ひどいしわがれ声しか出なくなってしまった。
電車は一度バーネット郡まで戻るようだった。セイント大尉に、トゥームズ将軍とはもう会ったのかと問うたが、「そんなわけないだろう」と、実にぶっきらぼうに返された。その態度は非常に無礼なものに感じられ、私はそれ以上、彼と話をする気をなくした。
バーネット郡に着いたのは11時だった。そしてすぐにまた出発しなおし、夜通しかけてアトランタを目指すという。小休止のため列車を降りると、何枚かの列車の窓ガラスが割れているのが目に入った。ぐっと冷え込んでいた夜だったが、心まで寒くなった。
(翻訳 正会員・小川寛大)

2012年6月24日日曜日

ゲティスバーグ戦149周年記念 映画『ゲティスバーグの戦い』上映会を開催します(7/1)

南北戦争の天王山といわれるゲティスバーグの戦いは、1863年の7月1日から3日まで、ペンシルバニア州のゲティスバーグで行われました。今年はその149周年の年になります。
本会ではそれを記念し、7月1日、同戦役を描いたスペクタクル映画『ゲティスバーグの戦い』の上映会を東京都内で開催します。ご関心のある方々のご参加をいただければ幸いです。

全日本南北戦争フォーラム主催 『ゲティスバーグの戦い』上映会
日時:2012年7月1日 13時15分~
場所:東京都新宿区 喫茶ルノアール 新宿区役所横店 2号会議室
東京都新宿区歌舞伎町1-3-5 相模ビル JR新宿駅東口徒歩7分 新宿区役所真裏 詳細は下記サイト
http://standard.navitime.biz/renoir/Spot.act?dnvSpt=S0107.6&cateCd=
参加費:参加者全員で、は会場使用料金の頭割り負担をお願いします(1,000円前後を想定)

 〈内容〉
『ゲティスバーグの戦い ‐南北戦争運命の三日間‐』
監督、製作、脚本:ロン・マックスウェル
製作総指揮:テッド・ターナー
撮影:キース・ヴァン・オーストラム
音楽:ジョン・フィリッツェル/ランディー・エデルマン
出演:ジェフ・ダニエルズ/トム・べレンジャー/マーチン・シーン、他
上映時間255分

(あらすじ)
3日間で5万人の死者。悲惨極まりないアメリカ南北戦争の歴史の中でも、とりわけ凄惨な戦場となったゲティスバーグの戦。そしてこの戦はまた、南北戦争の重要な分岐点でもあり、リンカーン大統領の名演説、「人民の人民による人民のための政治」の言葉とともに、多くの人々の胸に刻みつけられている、世界史的な一大事件でもあります。
この映画は、そんなゲティスバーグの戦を描いた、ミッチェル・シャーラのピューリッツァー賞受賞小説『The Killer Angel』を原作に、精巧な歴史描写をすることで知られるロナルド・マックスウェル監督の下作られた、一大巨編です。
南部の独立をかけて戦う名将リー、ロングストリートに対するは、要衝リトルランドトップを守りきった、北軍の英雄チェンバレン大佐。「運命の三日間」を4時間以上もかけて描いたこの作品は、忠実な歴史描写に最大限の力を入れ、特に「歴史再現者」と呼ばれるアメリカの南北戦争研究家たちのボランティア協力を得て再現した、数千人規模の横隊突撃シーンは圧巻です。
現在マックスウェル監督は、『Gods and Generals』(2003年公開映画)も含めた「南北戦争3部作」を制作中ですが、この映画はその第1弾となった作品で、南北戦争研究家の間でも大きな話題を巻き起こした傑作として知られています。
アメリカ南北戦争、その戦争を象徴する一戦といっても過言で無い戦を描いた「ゲティスバーグ」、この機会に、是非ご覧下さい。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
事務局

2012年6月16日土曜日

リメンバー・エルスワース

エルマー・E・エルスワース
(Elmer Ephraim Ellsworth 1837-1861)

どんな戦争においても、「最初の戦死者」というのは、その民族の記憶に長く残ります。
日本では日清戦争の「勇敢なるラッパ卒」、木口小平や、真珠湾攻撃で死んだ特殊潜航艇の「九軍神」などがその代表です。
南北戦争においても、そうした「語り継がれる最初の戦死者」がいました。それがエルマー・E・エルスワースです。
木口小平にしても九軍神にしても、冷酷に言い切ってしまえば、その名声は「最初に死んだ」という事実によって支えられているのであり、その生涯や戦績に、そうまで特筆すべき事柄はないというのが実際のところです。エルスワースもまた、そういう人物でした。
1837年にニューヨークに生まれたエルスワースは、長じてイリノイ州に移り、法律事務所の下働きをしているような、どこにでもいる若者でした。しかしそのイリノイ州で、エイブラハム・リンカーンという弁護士に出会い、その事務所の手伝いをするようになって、彼の人生は大きく変わります。
1860年にリンカーンが大統領選へ打って出たとき、エルスワースは選対のスタッフとして奔走。リンカーンは、背の低い彼が自分のために一生懸命働く姿を見て、「エルスワースは最も偉大な“リトル・マン”だ」と目を細めたといいます。
リンカーンが大統領となり、南部諸州が合衆国から離脱して南北戦争が勃発するや、エルスワースは故郷に帰って志願兵を募り、ニューヨーク第11連隊を結成します。それを指揮する連隊長は、誰であろう弱冠24歳の「エルスワース大佐」 でした。エルスワースは以前から軍事に関心を持っていて、独学ながら幅広い戦術の知識を身につけていたといいますが、それでもリンカーンの側近という立場でなければありえなかったでしょう。
エルスワースは部下たちに、一般の北軍の軍服ではなく、当時フランス軍が植民地のアフリカ兵に着せていたカラフルで派手な軍服、「ズアーブ」を着せました。こんなところにも、得意満面のエルスワースの高揚感が見て取れます。ありえない指揮官にありえない軍服。ニューヨーク第11連隊は明らかに異様な部隊でした。
開戦直後の1861年5月24日、リンカーンはホワイトハウスから、ポトマック川を挟んですぐそばに見える敵地バージニアのアレキサンドリア地区を眺めていました。するとそこに、 南部連合の国旗がこれ見よがしにはためいているのが目に映りました。
「あの旗が何とかならないだろうか」
いまいましげにリンカーンがそうつぶくと、かたわらにいたエルスワースが顔を高潮させて言いました。
「大統領、私に任せてください!」
それからすぐ、ニューヨーク第11連隊はポトマック川を押し渡り、南部連合の国旗をはためかせる「マーシャル・ハウス」というホテルに向かいました。4人の部下を引き連れてマーシャル・ハウスに押し入ったエルスワースは、難なく屋上の国旗を引きずりおろし、意気揚々と階段を下りました。
しかしその時です。マーシャル・ハウスのオーナー、ジェームズ・ジャクソンがエルスワースの前に躍り出て、ショットガンを発射したのです。エルスワースは即死。ジャクソンもエルスワースの部下にすぐ射殺されたのですが、こうしてエルスワースは、大佐という高位の軍人でありながら、南北戦争の死者第1号となったのです。
エルスワースの死にリンカーンは大きな衝撃を受け、嘆きました。開戦直後の高揚感に沸き立っていたマスコミは、この「若く勇敢な戦死者」を絶賛。北部のあちこちで、エルスワースを讃える記念碑などが建立されます。エルスワースが引きずりおろした南部連合国旗は彼の血で染められ、あちこちで見世物となって、たくさんの人を集めました。
 フランシス・ブラウネル二等兵。彼が着ているゆったりした軍服がズアーブ

後に、ジャクソンを殺したニューヨーク第11連隊のフランシス・ブラウネル二等兵は、議会から名誉勲章を授けられます。ご存知の通り、名誉勲章とは米軍の最高の勲章です。それが「エルスワース殺害犯を倒した」という理由だけで、一介の二等兵に与えられたのです。北部の街には「リメンバー・エルスワース」の声がこだまし、エルスワースの死は、さらなる戦意高揚のため、その後4年も続く戦争に利用されていくことになるのです。
何の実績もない24歳の「大佐」は、こうして「伝説」になりました。戦争というのは結局こういうものなのだと、後世のわれわれに教えてくれるために。
正会員・小川 寛大

2012年度総会報告

去る6月2日、東京都江戸川区にて本年度総会を行いました。
写真にある、事務局持参の「南北戦争扇子」を目印に集まっていただいた方々は、予想を上回る6人。150年という節目を迎え、日本でも南北戦争人気が静かに盛り上がっているのでしょうか。
第1部では、リンカーン大統領暗殺事件を描いた映画『The Conspirator』を鑑賞。事務局の不手際で、予定上映開始時刻が遅れてしまいましたことをあらためてお詫び申し上げます。
上映後は、映画の感想を交えてのディスカッション。それから役員人事を行いましたが、会員番号01氏を会長に、02氏を副会長に、03氏を事務局長に選出しました。規約変更では、マサチューセッツ州第21連隊のウィリアム・スミス・クラーク大佐が日本の札幌農学校に教頭として赴任した際、ただひとつの校訓として生徒に示した「Be gentleman」(紳士たれ)を、そのまま本会も唯一の規約とすることに決定しました。また、新たに3人の方に会員として登録いただきました。
懇親会では、昨年に本会が行ったアメリカ戦跡旅行の報告、南北戦争の軍編制に見るアメリカ思想への考察、グラントの戦略眼に関する批評、インディアン掃討戦の概略などについて、大いに議論が盛り上がりました。
次回は勉強会は、秋に『エイブラハム・リンカーン:バンパイア・ハンター 』の映画版が公開される機をとらえ、その合同鑑賞会を行おうという話がまとまりました。概要は改めて告知しますが、多数のご参加をお待ちしております。
事務局

2012年5月24日木曜日

南北戦争と西部劇

古書店にて、1962年2月に発行された『拳銃ファン』(小出書房)という雑誌を購入しました。目当ては表紙に踊る「グラビア立体特集・想出の南北戦争史」です。
ガン・マニア向け雑誌は今の日本でも発行されており、それらのほとんどは世界の軍や警察の姿を追う一種のミリタリー雑誌ですが、この『拳銃ファン』はそれらとは一風異なります。クイック・ドロー(早撃ち)の技術解説が載っていたり、アメリカ・インディアンの歴史を紐解く連載があったりと、その全体からは「西部劇」の香りが漂ってくるのです。南北戦争特集のトップを飾る「銃器 南北戦争史」という記事も、「西部の銃器」という連載の2回目であると記されています。
1962年といえば、絶頂期ではないにせよ、西部劇が非常な人気を博した時代です。西部劇の伝説的スター、ジョン・ウェインが『リバティ・バランスを射った男』で老いてなお十分な貫禄を見せつけ、「西部劇」という言葉の体現者といっても過言でない映画監督、ジョン・フォードが、19世紀後半の西部を描き切った大河映画『西部開拓史』を世に問うた年です。
この『拳銃ファン』を見るに、どうもそうした時代にあった「銃砲趣味」とは、西部劇人気と支えあって存在したものらしく、それゆえの「南北戦争特集」であったのだろうと推察するところです。
『拳銃ファン』はあくまで銃器雑誌で歴史雑誌ではなく、ためにその視点は実に新鮮です。南北戦争で用いられた銃器の種類をマニアックに考察し、戦争中にあった銃器の進化や、サミュエル・コルトら著名な銃器職人の動向についても詳しく解説してあって、目からウロコの面も少なくありません。21世紀の今、西部劇などというものは実に古臭い映画ジャンルだと思われているわけですが、それが支えていた芳醇な「趣味のフィールド」がかつて存在し、そして今ではそれらをほとんど目にすることが出来ないことをについて、南北戦争ファンの1人として、ページを繰りながらなにやら悲しくなってくるくらいです。
そして西部劇といえば銃とともに馬です。この特集には「南北戦争騎兵隊戦記」という記事があり、ジェブ・スチュアートやシェリダン、カスターといった著名な騎兵隊長はもちろん、フォレストやモズビーのような騎兵ギャング、またキルパトリックやジェームズ・ウィルソンといった、知る人ぞ知る騎兵将校についてまで詳細な紹介記事が書かれていてためになります。
シェナンドー渓谷での破壊作戦を指してか、「地獄将軍シェリダン」などと紹介されているところなどは、「西部劇の香り」が感ぜられて面白いところです。
この雑誌でさらに特筆すべきところは、南北戦争の開戦原因を一貫して「奴隷解放のため」だとしているところです。確かに、この時代ではまだ「南北戦争は奴隷解放のための聖戦であった」とする史観が、アメリカにおいてさえ主流でした。現在では南北の経済構造の差異や、州の権限を巡る合衆国憲法解釈のあり方などが、奴隷制問題と複雑に絡み合って起きたとされる声が圧倒的多数です。ゆえにここまで清々しく「奴隷解放のため起きた」と言い切る記事群には、逆に何か新鮮なものを感じれしまうほどです。

西部劇がその後廃れたのは、インディアンに対する差別的的描写への批判や、ベトナム戦争に敗れたアメリカの映画界が、ジョン・ウェイン流の「強く正しいアメリカ」 を描くのに躊躇するようになったことなどが主要な原因として挙げられます。なるほど、それらはすべて根拠のある意見です。南北戦争を「奴隷解放戦争」とみなす史観も含めて、今そうした「ジョン・ウェイン流」に基づいて映画や雑誌をつくることはほとんど不可能と言っていいでしょう。しかし、そうしたある意味での乱暴な「強く正しいアメリカ」を躊躇なく表現できた時代だからこそつくりえた、「面白い映画・雑誌」もまたあったのです。
真実、正義、権利などというものは、政治的、社会的状況によっていくらでも変わる。少なくとも、真実については揺るぎがあってはいけないはずなのだが、これが人間の弱さだ。 
とは、アメリカ南部連合国のアレクサンダー・スティーブンス副大統領が残した言葉です。 現在の西部劇観、南北戦争観も、また不変ではないでしょう。しかしこの時代に生きた南北戦争ファンとして、われわれもまた、「この時代だからつくれた面白い南北戦争モノ」を支え、また可能であればつくっていきたいものだと感じた次第です。

※本雑誌は6月2日に行われる本会総会に持参したいと思っております。ご関心のある方は直接お手にとってご講評ください。

正会員・小川 寛大

2012年5月18日金曜日

6月2日、東京都江戸川区で本会総会を行います。『The Conspirator』を上映

全日本南北戦争フォーラムの2012年度総会を、下記の日程で行います。
正会員の皆様はふるってご参加ください。
部外の方々も、一部についてはご参加になれます。

全日本南北戦争フォーラム2012年度総会
日時:2012年6月2日 16時30分~
場所:東京都江戸川区コミュニティプラザ一之江 第4集会室
東京都江戸川区一之江7-35-22 都営地下鉄新宿線一之江駅直結 詳細は下記サイト
http://www.city.edogawa.tokyo.jp/shisetsuguide/bunya/bunkachiiki/c_plaza_ichinoe/index.html
参加費:正会員は会場使用料金を頭割り負担願います(500円前後を想定)、外部の方は無料

〈内容〉
第1部:映画『The Conspirator』上映会(外部の方も参加可能)
監督:ロバート・レッドフォード
出演:ジェームズ・マカボイ ロビン・ライト ケビン・クライン
2011年 アメリカ映画 日本未公開 122分

(あらすじ)
1865年4月14日、南北戦争の終結直後、ワシントンの劇場でリンカーン大統領が南軍シンパの俳優に殺害される。実行犯は捜査途中で死亡。当局は共犯者を根こそぎ逮捕し、軍事法廷で裁くことを決定。元北軍軍人の弁護士、フレデリック・エイキンは、指名を受けて気の進まないまま被告の弁護を引き受けるが、そのまったく人権無視の裁判の進め方に衝撃と疑問を感じ始める…。リンカーン大統領の暗殺は、戦勝気分に沸いていた北部を絶望のどん底に叩き落す事件でした。リンカーンの後継者をもって任じたスタントン陸軍長官は、事件に何も関係ないような人物までをも逮捕。陪審員なし、控訴も認めないという人権無視の法廷で、買収した証人の「証言」に基づく、結論ありきの裁判を展開します。この裁判で死刑になった被告の中には、現在の研究ではまったくの無罪だったとされる人物まで含まれているのです。ハリウッドきってのリベラル派として知られるロバート・レッドフォードが、南北戦争開戦150周年の年に放った「人権映画」を、この機会にぜひご覧ください。


第2部(正会員のみ参加可能)
役員人事・規約改定
ディスカッション「リンカーン暗殺とは何だったのか」

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
事務局

5月24日、日本女子大で講演「リンカーンの英米文学史」

(グラント、リンカーン、スタントンの彫像 アメリカ国立肖像画美術館蔵)

5月24日の15時45分より、東京・目白の日本女子大学で英語英文学会の春季講演会「リンカーンの英米文学史」が行われるとのことです。
詳細は下記。
http://www.jwu.ac.jp/grp/lecture_news/2012/20120524.html
講師の巽孝之氏は慶応大学教授で、2002年に『リンカーンの世紀 アメリカ大統領たちの文学思想史』(青土社)を上梓しておられます。
日本で南北戦争関係の講演会が行われるのは大変稀なことです。
一般参加も可能とのことですので、当日は当会事務局も聴講にうかがい、本サイトでレポートなども行おうと考えております。
事務局

クラーク博士の戦歴

「Who's Who」と題し、不定期で南北戦争で活躍した人々の小伝を掲載していきたいと思います。
南北戦争の有名人といえば、リンカーン大統領にリー将軍、フレデリック・ダグラスにアンブローズ・ビアス、ホイットマンと目白押しですが、「全日本南北戦争フォーラム」として第1回目に紹介したいのは、ウィリアム・スミス・クラークです。そう、明治初期にお雇い外国人教師として来日し、札幌農学校で「青年よ、大志を抱け」と語って多くの日本人の胸にその名を刻みつけた、あの「クラーク博士」です。
彼は教師であるとともに、南北戦争に北軍軍人として従軍し、大佐まで昇進して1個連隊を率いていた歴戦の勇士でした。
 ウィリアム・スミス・クラーク
(William Smith Clark 1826-1886)
札幌市・羊ヶ丘展望台のクラーク像

1877年4月16日とのことといいます。札幌農学校教頭の職を辞し、北海道を去ろうとするクラークの周囲に名残おしく集まった教え子や同僚に向かい、彼はひらりと馬に飛び乗るや「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」と叫び、駒とともに疎林へ消えました。
教え子の中には、後に北海道帝国大学総長となる佐藤昌介や、石橋湛山を育てた教育者・大島正健らがいました。また、後に彼らの薫陶を受けて農学校で育つ後輩には、新渡戸稲造や内村鑑三たちがいました。
このときこそが、クラークの人生の絶頂点でした。そう、つまり、この後のクラークの人生とは、ただひたすらに落ちていくものでしかなかったからです。
クラークは1826年7月26日、アメリカ北部のマサチューセッツ州アッシュフィールドに、医者の息子として生まれました。母方の祖父は上院議員まで務めた人物で、また父は土地の富豪と非常に親密な仲だったというのですから、間違いなく上流階級です。
成長したクラークは地元のアーマスト大学に入学し、化学を専攻します。しかしこのアーマスト大学は牧師の養成校としても知られた学校で、クラークはキリスト教への篤い信仰心をも、この学び舎で育みます。この信仰心が、後に札幌農学校の中に移入され、新渡戸や内村といった日本を代表するキリスト者たちへの系譜に連なっていくのです。
クラークはその後、ドイツに留学して博士号を取得。1852年に母校・アーマストで農芸化学の教授となります。後に北海道に渡り、日本の教育界に伝説的な名を残しているほどの彼です。教育者としての才は申し分なかったそうですが、また図書館建設のため募金活動や、火災で失われた寮の再建運動などにも見事な手腕を発揮し、マサチューセッツの名士となっていきます。
そんな1861年4月、アメリカを真っ二つに割る南北戦争が勃発します。同戦争の口火を切ったサムター要塞の戦いが行われた直後、クラークはアーマストで開かれた全学集会でアメリカ独立宣言を読み上げ、学生や同僚たちに合衆国(北部)への変わらぬ忠誠を呼びかけたといいます。
クラークは学生を集めて義勇連隊の結成を企図。結局これは実を結びませんでしたが、8月にはマサチューセッツ州第21連隊の軍人として、教職をなげうち出征するのです。
35歳の大学教授の行動と考えれば、現在の日本の価値観では驚く人も多いかもしれません。しかし当時のアメリカは北も南も、戦争への熱狂で興奮状態でした。クラークのごとく、年齢も社会的地位も乗り越えて軍に志願する人間は、山のようにいました。
クラークはその教養と社会的地位を買われ、最初から少佐として従軍します。土地の名士は兵隊集めの一種の「看板」にもなりましたから、こうした措置は当時、決して珍しいことではありませんでした。
21連隊はしばらく訓練に集中し、初陣を飾ったのは1862年の2月、ノースカロライナ州で行われたロアノーク島の戦いでのことでした。この戦いは北軍の大勝に終わったのですが、この「実際の戦闘経験」を得た辺りから、クラークの戦争への熱情には揺らぎが見え始めます。開戦時の高揚感から遠く離れ、実際に人が死傷する現場を見て、クラークはもう軍を辞めようと思うようになったのです。
ちなみにこの感情は、決してクラークが特別に臆病だったからではありません。開戦時の熱狂とともに軍に殺到した志願兵たちが、この時期に共通して持ち始めた感情で、末端の兵士たちの間ではすさまじい勢いで脱走が「流行」し始めます。
ただクラークは職務には忠実でした。ロアノーク島の戦いの1ヶ月後に行われたノースカロライナ州ニューバーンの戦いでは、勇敢に敵陣に突撃。敵の大砲を自ら馬乗りになって分捕り、北軍を戦勝に導く大活躍をしています。
「『来た、見た、勝った』(カエサルの言葉)という感じの勝ちっぷりだった。色あせ、銃弾で穴の開いた星条旗を掲げ、われわれは堂々と進んでいる」 とは、戦闘後にクラークが友人に送った手紙の一節です。そして3月中に中佐に昇進したかと思うと、翌月には大佐に昇進。拡大する戦線に対応するため部隊を急造せねばならず、そのため指揮官さえをも急ごしらえでつくる必要性があった当時のアメリカでは、南北ともに、このような「乱暴な人事」がしばしば行われていました。しかしそれでも、無能者は「乱暴な人事」の恩恵にさえあずかれません。
「クラーク大佐ほど評判のいい指揮官はいない。司令部の評価も同じで、大佐が欲しがるものならば、国は何でも与えるだろう」
以上はクラークを評した当時の新聞記事ですが、学者上がりの「中年軍人」は、軍に志願して1年もたたずに、ここまでの栄光を手にしていたのです。
しかし1862年9月のチャンティリーの戦いで、21連隊は手ひどい打撃を受けます。南軍の猛将、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソン将軍に一蹴され、21連隊は壊走するのです。クラークも副官や従卒らをすべて殺され、たった1人で森に身を潜め戦場から離脱するなど、散々な目にあいます。
クラークの所在は一時不明となり、新聞には死亡記事までもが出ました。「『クラーク大佐が戦死し、遺族はその遺体の返還を望んでいる』か。どれ、自分自身で“返還”しに行くか」とは、生還後、その「自分の死亡記事」を読んでクラークがユーモアたっぷりに語った言葉といいますが、この敗北により、クラークはこれ以上軍人を続けていく気持ちをまったく喪失してしまします。クラークは将軍への昇進をひそかに狙っていたともいいますが、このような指揮ぶりを露呈し、その可能性も失われてしまいました。
「私はここに辞表を提出し、合衆国から名誉ある解任の命を承りたいと望む。その理由は、わが連隊の規模が縮小してしまい、現状況においては、私は軍隊よりも民間にあった方が、国家に貢献できると考えたからである」
1863年4月、クラークは上記のような辞表を提出し、軍を去りました。
しかしマサチューセッツにおいて、クラークの声望はまったく揺らいではいませんでした。むしろ「国家に尽くした偉大な愛国者」として迎えられ、戦後は新設のマサチューセッツ農科大学の学長に就任します。
1876年、クラークは日本政府から、 北海道開拓使の札幌農学校教頭にと請われ、太平洋を渡ります。前年に設立された農学校を実質的につくりあげたのは、クラークと同じマサチューセッツ出身で、これまた同じく南北戦争時に北軍に従軍し、そして将軍となり、戦後、合衆国政府の農務局長を務めた農学者、ホレース・ケプロンでした。ケプロンはクラークと入れ替わりに日本を去っていますが、この縁があったからこそのクラーク来日でした。
本稿は、「日本時代のクラーク」を詳述することを目的としません。しかし日本滞在期間わずか8ヶ月でありながら、札幌農学校において生徒たちにただ1つ「紳士たれ(Be gentleman)」の校訓を示し、キリスト教の精神に裏打ちされた高潔な人格でもって北海道開拓の基礎となる有為の人材を育てた功績は、いまなお日本で広く語られています。離日時の「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」の声は、まさにその仕事の集大成であり、絶頂点でした。
しかし帰国後のクラークの生活は悲惨でした。クラークは「洋上大学」という、大型の船に学校施設を備え付け、世界中の青少年を教導して回ろうという途方もない構想に取り付かれ、見事に失敗。その後は山師的な人物にだまされて鉱山経営に乗り出し、破産して一文無しになってしまうのです。
もはやクラークはマサチューセッツの名士ではありませんでした。背負った借金による、いくつもの裁判を抱えた、みすぼらしい敗残者でした。不幸なことにクラークは心臓病にも侵され、寝たきりのような生活を強いられます。1886年3月9日、クラークは59歳でその生涯を閉じます。
現在のアメリカにおいて、クラークはまったく無名の人物です。彼は結局、学者としても軍人としても挫折者でした。
しかし日本での名声はご存知の通りです。そしてクラークを北海道に招いたケプロンとの間にあった「南北戦争」という縁がなければ、「札幌農学校クラーク教頭」の誕生もまたなかったのだと考えれば、日本人として、南北戦争と言うものの存在の大きさを感じざるを得ません。
正会員・小川寛大

2012年5月17日木曜日

公認twitter「南北戦争名言bot」のご案内

全日本南北戦争フォーラム公認twitter、「南北戦争名言bot」をご紹介します。


南北戦争名言bot
https://twitter.com/#!/nanboku_bot

南北戦争の時代に生きた人々の言葉を、日本語で紹介するbotです。
2時間に1つの割合で、戦争中の人々が発した「名言」がつぶやかれていきます。
そのほか、日本のtwitterユーザーの方々がつぶやかれた南北戦争に関する話題なども紹介しております。
お楽しみいただければ幸いです。
事務局

「全日本南北戦争フォーラム」公式サイトの運用を開始します

(マナサス古戦場の大砲群)

はじめまして。全日本南北戦争フォーラムと申します。
本会はアメリカ南北戦争(1861~1865)の歴史を語らう日本人の集いとして、同戦争開戦150周年に当たった2011年に結成されました。
南北戦争はアメリカを真っ二つに引き裂いた内乱であるとともに、同国が経験した史上最大の戦争でした。戦死者数は約60万人。現在の人口規模に合わせると2000万人近くもの人命が失われた戦争であるといわれています。
この戦争の禍々しい記憶こそが、現在のアメリカという国の精神を形作ったともされており、アメリカを語る上で無視することのできない戦争です。
また南北戦争は、ライフル銃や塹壕、金属装甲艦、潜水艦、熱気球など、その後の戦争の姿を大きく変えることになる新戦術、新兵器が多数登場した戦争でもあり、世界の軍事史上からも無視できない戦いです。
しかし日本において、南北戦争は学界においても歴史趣味者の世界においても、ほとんど関心をもたれてこなかった分野です。「日米関係は世界で最も重要な国家関係の1つ」とまでいわれている中において、日本人がこの戦争について深く考えることは、非常に意味のあることなのではないかと考えます。
本会はまさに、「日本人の日本人による日本人のための南北戦争を語る集い」です。
本会の行っていく勉強会やその他の各種行事などの告知や報告、また会員諸氏からのレポートなどを随時このサイトに掲載し、日本における南北戦争への関心が少しでも高まっていく一助になればと思っております。
事務局