2012年6月28日木曜日

スティーブンス『獄中記』1

 (Alexander Hamilton Stephens 1812-1883)

アレクサンダー・スティーブンスはアメリカ連合国の副大統領で、「奴隷制は神の認める絶対善である」とまで主張し、南北戦争を戦う南部の精神的支柱として活躍した大政治家でした。
しかし彼は、貧しい家に生まれ、自分の才覚で成り上がって奴隷農園主となり、南部ジョージア州を代表する政治家に成長していったという、世襲の大農園主が多かった一般の「南部貴族」とは少し違った経歴の持ち主でした。よって彼は、政治信条は違えども、ともに貧困階級から成り上がったリンカーンとは実に馬が合い、また南部の大統領、ジェファーソン・デービスとは、ほとんど犬猿の仲という人物でした。
南北戦争終結後、彼は北軍に逮捕され、約半年間、ボストンの監獄で生活を送ります。かれはその間、獄中記をしたためており、これは南部の政治家が戦後にどのような心境に至っていたのかを知る、一級の資料とも言われています。
本会ではこの投稿を皮切りに、その獄中記を少しづつ翻訳し、掲載していきたいと思っております。南北戦争史に関心のある皆様方に取り、何かの参考になれば幸いです。

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1865年5月11日(火)、ジョージア州リバティーホール
心地よい眠りの後、かなり早くに目が覚めた。とても清々しい朝だった。アセンズ郡から、ヘンリー・フル氏の子息、ロバートが訪ねて来ていて、昨夜からわが家に泊まっていた。
朝食の後、何人かに手紙を書いた。それからロバートとともに、トランプに興じていた。その時だった。奴隷のティムが部屋に駆け込んできて、こう叫んだのだ。
「旦那様! ヤンキーが来ます! もうたくさんの兵隊が町に侵入していて、軍馬の声や銃剣のガチャガチャする音が響き渡っています」
いずれこうなろうとは、うすうす感づいていた。 南部は負けたのだ。私はロバートに言った。
「彼らはすぐここに来る。私物を整理しておこう」
そう言い終わらないうちくらいに、私の眼は、わが家に近付いてくる北軍の将校をとらえた。家のドアは開いていた。将校はそのまま家に入ってきて、私に言った。
「スティーブンスか?」
そうだと返事をすると、さらに念を押された。
「アレキサンダー・ハミルトン・スティーブンスで間違いないな?」
それが私の名前である、と答えた。
将校が続けた。
「お前を逮捕するよう命令が出ている」
彼に名前を問うた。アトランタに駐屯するアップトン将軍配下の、アイオワ州第4騎兵連隊所属、セイント大尉で、ここにはネルソン将軍の指令で来ていると言う。彼は私に命令書を提示した。私とともにロバート・トゥームズ将軍も捕らえよとの内容だった。
セイント大尉の任務は、私をクローフォードビルまで護送することだという。それからどうするのか。ワシントンへか。アップトン将軍の司令部に連行されるのか。
こうなることはとっくに予想していた。自分から出頭すべきかともさえ思っていた。そうセイント大尉に告げ、私の“旅路”はどのようなものになるのだろうかと聞くと、私を護送するための列車を用意しているとのことだった。
私はティムを呼び、カバンに着替えを詰めて持ってきてほしいと頼んだ。
「分かりました」
そう答えたティムに、どれくらいの時間で用意できるか問う。「数分でやります」との即答があった。同じ奴隷のハリーもやってきて、非常に驚き、そして悲しんでいた。
セイント大尉から、希望するなら奴隷を1人帯同してもいいとの言葉があった。そこで彼に、私は最終的にどこへ連れて行かれるのか問うた。「最初はアトランタだが、最終的にはワシントンだろう」との答だった。ならばとアンソニーを呼んだ。彼はリッチモンド出身で、母親はまだ同地にいる。ワシントン方面にも詳しかった。すぐに出発の用意をするよう命じた。
セイント大尉は従卒とともに、朝食をとるため一時わが家を退去した。そのほっとした束の間に、私は兄弟のジョンとその家族のことを思い浮かべた。何の知らせもなく私が彼らの前から消えたら、彼らはどう思うだろうか。
セイント大尉は10時に戻ってきた。そして「15分以内に出発するぞ」と言う。友人や奴隷たちの口から嗚咽が漏れた。私の心も、涙であふれた。
私はセイント大尉に、兄弟へ手紙を書く許可を求めた。幸い、彼はそれを許してくれた。ジョンとその家族は、1週間ほど前に私を訪ねてきて、2日前に帰ったばかりだった。以下はその手紙の写しである。

親愛なる兄弟よ。
アイオワ州第4騎兵連隊のセイント大尉が、私を逮捕しにやってきた。トゥームズ将軍もともにだそうだ。アトランタを経て、おそらくワシントンへ連れて行かれる。
またお前に会える日が来るのかどうか、今はまったく分からない。だが、神はどんなことがあろうとお前を支えてくれるだろうし、また私自身も救ってくださるだろうと信じる。神の愛が、お前とその家族を救ってくださいますように。また私自身も、お前とコスビー、ディック、ジョンソン、およびすべての友人たちを常に思っている。
もうこれ以上書く時間がない。愛している。
お前の最も親愛なる者
アレクサンダー・H・スティーブンス

この手紙を奴隷のリントンとハリーに預け、私が去ったら、すぐにスパルタのジョンへ送るよう命じた。
しかしセイント大尉はこの段になって、私が手紙を送ることに反対しだした。私は彼に手紙の文面を見せ、決しておかしなことを書いているのではないと証明したが、それでも彼の考えは変わらなかった。私は泣いてしまいそうだった。あて先が違っていたらどうだったろう。たとえば妹夫婦とか、友人たちとか。
護送列車の周りには、多くの人が集まっていた。皆、悲しそうな表情をしていた。嗚咽の声も聞こえた。
私が駅の待合室を出ると、列車は数百ヤードほど後退し、何人かの兵士が乗り込んだ。私が逃げ出さないように見張る役目を負っているらしい。私が列車に乗り込み、出発する段になると、その時の何人かは列車から降りた。列車ははそのまま、バーネット郡まで止まらずに走った。そこで汽車を取り替え、ワシントン郡へ向けて再び走り出した。
しかし4マイルほど走ると、列車のスピードが突然落ちた。列車の責任者は、われわれに下車するよう求めた。その地点のそばにあった小屋が急きょ接収され、私はそこに連れて行かれた。約20人の兵士が、私の監視要員として周囲を固めていた。
セイント大尉が「1時間ほどで戻る」と言い残し、どこかへと去った。しかし彼は日が暮れても戻らなかった。そして突然、豪雨になった。こんな雨は数週間ぶりだった。
小屋の主人が、肉のフライとコーン・ブレッドを出してくれた。「これができる精一杯で…」と彼は言った。私は空腹ではなかったのだが、その心遣いが非常にうれしく、ありがたくいただいた。
夜になっても大尉は戻らなかった。主人は今度は夜食を出してくれた。彼の夫人も非常に優しい人で、私は彼らの心遣いに本当に申し訳なくなった。
深夜と言える時間になって、汽車の蒸気機関が再びけたたましい音を立てるのが聞こえた。セイント大尉の「外出」が奏功したのだろうと私は思った。
大尉が私の前に戻ってきたので、いったい何か起こっていたのかと問うたが、彼はまともに答えようとせず、私に再び列車へ乗るよう命じた。アンソニーも、再び荷物番だけに専念できるようになった。ただ雨のおかげで大地は濡れそぼっており、私の靴もぐっしょりと湿っていた。雨は冷気を運んできて、私はノドをやられ、ひどいしわがれ声しか出なくなってしまった。
電車は一度バーネット郡まで戻るようだった。セイント大尉に、トゥームズ将軍とはもう会ったのかと問うたが、「そんなわけないだろう」と、実にぶっきらぼうに返された。その態度は非常に無礼なものに感じられ、私はそれ以上、彼と話をする気をなくした。
バーネット郡に着いたのは11時だった。そしてすぐにまた出発しなおし、夜通しかけてアトランタを目指すという。小休止のため列車を降りると、何枚かの列車の窓ガラスが割れているのが目に入った。ぐっと冷え込んでいた夜だったが、心まで寒くなった。
(翻訳 正会員・小川寛大)

2012年6月24日日曜日

ゲティスバーグ戦149周年記念 映画『ゲティスバーグの戦い』上映会を開催します(7/1)

南北戦争の天王山といわれるゲティスバーグの戦いは、1863年の7月1日から3日まで、ペンシルバニア州のゲティスバーグで行われました。今年はその149周年の年になります。
本会ではそれを記念し、7月1日、同戦役を描いたスペクタクル映画『ゲティスバーグの戦い』の上映会を東京都内で開催します。ご関心のある方々のご参加をいただければ幸いです。

全日本南北戦争フォーラム主催 『ゲティスバーグの戦い』上映会
日時:2012年7月1日 13時15分~
場所:東京都新宿区 喫茶ルノアール 新宿区役所横店 2号会議室
東京都新宿区歌舞伎町1-3-5 相模ビル JR新宿駅東口徒歩7分 新宿区役所真裏 詳細は下記サイト
http://standard.navitime.biz/renoir/Spot.act?dnvSpt=S0107.6&cateCd=
参加費:参加者全員で、は会場使用料金の頭割り負担をお願いします(1,000円前後を想定)

 〈内容〉
『ゲティスバーグの戦い ‐南北戦争運命の三日間‐』
監督、製作、脚本:ロン・マックスウェル
製作総指揮:テッド・ターナー
撮影:キース・ヴァン・オーストラム
音楽:ジョン・フィリッツェル/ランディー・エデルマン
出演:ジェフ・ダニエルズ/トム・べレンジャー/マーチン・シーン、他
上映時間255分

(あらすじ)
3日間で5万人の死者。悲惨極まりないアメリカ南北戦争の歴史の中でも、とりわけ凄惨な戦場となったゲティスバーグの戦。そしてこの戦はまた、南北戦争の重要な分岐点でもあり、リンカーン大統領の名演説、「人民の人民による人民のための政治」の言葉とともに、多くの人々の胸に刻みつけられている、世界史的な一大事件でもあります。
この映画は、そんなゲティスバーグの戦を描いた、ミッチェル・シャーラのピューリッツァー賞受賞小説『The Killer Angel』を原作に、精巧な歴史描写をすることで知られるロナルド・マックスウェル監督の下作られた、一大巨編です。
南部の独立をかけて戦う名将リー、ロングストリートに対するは、要衝リトルランドトップを守りきった、北軍の英雄チェンバレン大佐。「運命の三日間」を4時間以上もかけて描いたこの作品は、忠実な歴史描写に最大限の力を入れ、特に「歴史再現者」と呼ばれるアメリカの南北戦争研究家たちのボランティア協力を得て再現した、数千人規模の横隊突撃シーンは圧巻です。
現在マックスウェル監督は、『Gods and Generals』(2003年公開映画)も含めた「南北戦争3部作」を制作中ですが、この映画はその第1弾となった作品で、南北戦争研究家の間でも大きな話題を巻き起こした傑作として知られています。
アメリカ南北戦争、その戦争を象徴する一戦といっても過言で無い戦を描いた「ゲティスバーグ」、この機会に、是非ご覧下さい。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
事務局

2012年6月16日土曜日

リメンバー・エルスワース

エルマー・E・エルスワース
(Elmer Ephraim Ellsworth 1837-1861)

どんな戦争においても、「最初の戦死者」というのは、その民族の記憶に長く残ります。
日本では日清戦争の「勇敢なるラッパ卒」、木口小平や、真珠湾攻撃で死んだ特殊潜航艇の「九軍神」などがその代表です。
南北戦争においても、そうした「語り継がれる最初の戦死者」がいました。それがエルマー・E・エルスワースです。
木口小平にしても九軍神にしても、冷酷に言い切ってしまえば、その名声は「最初に死んだ」という事実によって支えられているのであり、その生涯や戦績に、そうまで特筆すべき事柄はないというのが実際のところです。エルスワースもまた、そういう人物でした。
1837年にニューヨークに生まれたエルスワースは、長じてイリノイ州に移り、法律事務所の下働きをしているような、どこにでもいる若者でした。しかしそのイリノイ州で、エイブラハム・リンカーンという弁護士に出会い、その事務所の手伝いをするようになって、彼の人生は大きく変わります。
1860年にリンカーンが大統領選へ打って出たとき、エルスワースは選対のスタッフとして奔走。リンカーンは、背の低い彼が自分のために一生懸命働く姿を見て、「エルスワースは最も偉大な“リトル・マン”だ」と目を細めたといいます。
リンカーンが大統領となり、南部諸州が合衆国から離脱して南北戦争が勃発するや、エルスワースは故郷に帰って志願兵を募り、ニューヨーク第11連隊を結成します。それを指揮する連隊長は、誰であろう弱冠24歳の「エルスワース大佐」 でした。エルスワースは以前から軍事に関心を持っていて、独学ながら幅広い戦術の知識を身につけていたといいますが、それでもリンカーンの側近という立場でなければありえなかったでしょう。
エルスワースは部下たちに、一般の北軍の軍服ではなく、当時フランス軍が植民地のアフリカ兵に着せていたカラフルで派手な軍服、「ズアーブ」を着せました。こんなところにも、得意満面のエルスワースの高揚感が見て取れます。ありえない指揮官にありえない軍服。ニューヨーク第11連隊は明らかに異様な部隊でした。
開戦直後の1861年5月24日、リンカーンはホワイトハウスから、ポトマック川を挟んですぐそばに見える敵地バージニアのアレキサンドリア地区を眺めていました。するとそこに、 南部連合の国旗がこれ見よがしにはためいているのが目に映りました。
「あの旗が何とかならないだろうか」
いまいましげにリンカーンがそうつぶくと、かたわらにいたエルスワースが顔を高潮させて言いました。
「大統領、私に任せてください!」
それからすぐ、ニューヨーク第11連隊はポトマック川を押し渡り、南部連合の国旗をはためかせる「マーシャル・ハウス」というホテルに向かいました。4人の部下を引き連れてマーシャル・ハウスに押し入ったエルスワースは、難なく屋上の国旗を引きずりおろし、意気揚々と階段を下りました。
しかしその時です。マーシャル・ハウスのオーナー、ジェームズ・ジャクソンがエルスワースの前に躍り出て、ショットガンを発射したのです。エルスワースは即死。ジャクソンもエルスワースの部下にすぐ射殺されたのですが、こうしてエルスワースは、大佐という高位の軍人でありながら、南北戦争の死者第1号となったのです。
エルスワースの死にリンカーンは大きな衝撃を受け、嘆きました。開戦直後の高揚感に沸き立っていたマスコミは、この「若く勇敢な戦死者」を絶賛。北部のあちこちで、エルスワースを讃える記念碑などが建立されます。エルスワースが引きずりおろした南部連合国旗は彼の血で染められ、あちこちで見世物となって、たくさんの人を集めました。
 フランシス・ブラウネル二等兵。彼が着ているゆったりした軍服がズアーブ

後に、ジャクソンを殺したニューヨーク第11連隊のフランシス・ブラウネル二等兵は、議会から名誉勲章を授けられます。ご存知の通り、名誉勲章とは米軍の最高の勲章です。それが「エルスワース殺害犯を倒した」という理由だけで、一介の二等兵に与えられたのです。北部の街には「リメンバー・エルスワース」の声がこだまし、エルスワースの死は、さらなる戦意高揚のため、その後4年も続く戦争に利用されていくことになるのです。
何の実績もない24歳の「大佐」は、こうして「伝説」になりました。戦争というのは結局こういうものなのだと、後世のわれわれに教えてくれるために。
正会員・小川 寛大

2012年度総会報告

去る6月2日、東京都江戸川区にて本年度総会を行いました。
写真にある、事務局持参の「南北戦争扇子」を目印に集まっていただいた方々は、予想を上回る6人。150年という節目を迎え、日本でも南北戦争人気が静かに盛り上がっているのでしょうか。
第1部では、リンカーン大統領暗殺事件を描いた映画『The Conspirator』を鑑賞。事務局の不手際で、予定上映開始時刻が遅れてしまいましたことをあらためてお詫び申し上げます。
上映後は、映画の感想を交えてのディスカッション。それから役員人事を行いましたが、会員番号01氏を会長に、02氏を副会長に、03氏を事務局長に選出しました。規約変更では、マサチューセッツ州第21連隊のウィリアム・スミス・クラーク大佐が日本の札幌農学校に教頭として赴任した際、ただひとつの校訓として生徒に示した「Be gentleman」(紳士たれ)を、そのまま本会も唯一の規約とすることに決定しました。また、新たに3人の方に会員として登録いただきました。
懇親会では、昨年に本会が行ったアメリカ戦跡旅行の報告、南北戦争の軍編制に見るアメリカ思想への考察、グラントの戦略眼に関する批評、インディアン掃討戦の概略などについて、大いに議論が盛り上がりました。
次回は勉強会は、秋に『エイブラハム・リンカーン:バンパイア・ハンター 』の映画版が公開される機をとらえ、その合同鑑賞会を行おうという話がまとまりました。概要は改めて告知しますが、多数のご参加をお待ちしております。
事務局