2012年7月7日土曜日

スティーブンス『獄中記』2

5月12日、ジョージア州アトランタ
これまでの人生の中で、最もあわただしい1日だった。この日を境にして、「容疑者」である私からは、自由というものが完全に失われた。
夜通し走った列車がアトランタに着いたのは朝の8時半。気分は非常にすぐれなかった。すぐにアップトン将軍の司令部に連行されたのだが、そこで意外な人物と再会した。トゥームズ将軍の所有していた奴隷で、私とも親交のあったフェリックスだった。私と彼は、思わぬ再会に共に相好を崩し、力強い握手を交わした。彼は今はコックをしていて、その腕前はなかなかのものと評価されているそうだ。
アップトン将軍はメーコンへ出かけていて留守だった。代わりに司令部要員のギルピン大尉が出てきて、私に司令部の一室をあてがった。大尉はフェリックスに朝食の準備を命じ、すぐにハムとコーヒーが供された。
監視つきながら、街の様子を見て歩くことができた。戦争の爪あとは深く、どこもかしこも滅茶苦茶だった。私の姿を認めて、声をかけてくる何人かの人があった。しかし、彼らのあまりにみすぼらしい姿に胸が張り裂けそうで、私は何も言ってやることができなかった。
アップトン将軍の部下であるアイラ・R・フォスター将軍が私に紙と筆記具をくれたが、勝手に手紙を書いたり、人と会ったりすることは厳禁だという。G・W・リー大佐が私の「管理担当」だそうで、彼とは自由に話をしていいというが、彼と話すことなど何もない。そんな折、知人のジョン・W・ダンカン氏が特別の許可を取って私を訪ねてきてくれた。先ほどの外出で私の姿を見たアトランタの友人、知人の多くが、非常に心配してくれているのだという。
昨夜からのノドの不調が一向に治らない。セイント大尉が軍医を呼んでくれた。軍医は特に心配するほどのことではないという。クーパー少佐が薬として、ウィスキーをふるまってくれた。
私はいざということもあろうと、自宅から590ドルほどの金を持ってきていた。ところが知人のギップ・グリアー氏から、私を心配して20ドルの現金が届けられた。ギルピン大尉も、その好意を受け取っておくべきだという。グリアー氏の手紙には、必要ならばさらに追加で100ドルほど用意できるとあった。いくらなんでも、そこまでは甘えられない。ダンカン氏も、望むものがあれば何でも手配すると言ってくれたが、不足しているものは何もないと答えた。
以上のことは、すべて北軍の監視下で行われた。フォスター将軍は、軍でも私の要望には可能な限り応えると言ったが、私は何もいらないと返した。見ての通り、南部が敗れた今でも、南部の友人たちはここまで私に尽くしてくれる。なぜ北軍からさらにもらわねばならないのだ。
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ロバート・トゥームズ
Robert Augustus Toombs 1810-1885

前回からしばしば名前の出る「ロバート・トゥームズ将軍」とは、スティーブンスと同じジョージア州出身の政治家です。南北戦争開戦前は同州選出の下院議員を務め、南部連合国樹立後は初代国務長官に就任。南部を代表する政治家の1人と言っていい存在でした。
しかし民主党の政治勢力が中心となって建国された南部連合の中にあって、彼は共和党の系譜につながるホイッグ党の政治家として身を起こした存在で、政権内ではしばしば孤立。特にデービス大統領との仲は最悪で、結果、彼は早々に国務長官の地位を投げ出し、南軍の軍人として戦地に出征するのです。彼は北バージニア軍の旅団長として活躍。戦争後半は軍務から離れ、在野の一言居士としてデービス政権の無能を攻撃し続ける生活を送っています。
戦争終結時、彼は北軍による逮捕を恐れてヨーロッパに逃亡。このスティーブンスの獄中記が書かれたころは、アメリカにいません。帰国したのは1867年で、南部の政治の主導権が再び南部人の手に帰していく中、ジョージアの政界を隠然と支配し続ける存在として君臨します。ちなみに、スティーブンスもデービス大統領の政治手法には批判的だった人物で、トゥームズとは固い友情で結ばれていました。
(翻訳・解説 正会員・小川寛大)

2012年7月5日木曜日

ラッパ将軍バターフィールド

ダニエル・バターフィールド
(Daniel Adams Butterfield 1831-1901)

先日開催しました『ゲティスバーグの戦い』上映会の上映作品中、登場人物であるトム・チェンバレンが、メーン州第20連隊が所属する旅団の信号ラッパについて語るシーンがありました。本筋には何ら関係のなかった話ですが、参考のため、そのトムの話に出たダニエル・バターフィールド将軍の小伝を掲載します。本会会員がかつてほかの所で執筆したものを、そのまま転載するものです。

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アメリカ軍の軍隊ラッパに「Taps」というものがある。葬送の際に用いられるもので、「実用音楽」たる信号ラッパながら、ゆったりとした哀愁のある名 曲である。このラッパ譜ができたのは南北戦争中のことなのだが、作ったのは軍楽隊員ではなく、ダニエル・バターフィールドという北軍の将軍だった。


バターフィールドの父は、今なおアメリカに存続する大企業アメリカン・エクスプレスの創設者で、1831年ニューヨークに生まれた彼も、大学を出てその会社に勤めるビジネスマンであった。
1861年春、そんな彼は南北戦争の勃発と共に北軍に志願。民兵団に参加していたくらいで、特段それまで軍事教育のようなものは受けたことが無かった彼 だが、その年の秋にはトントン拍子で旅団指揮官たる将軍(准将)までになっていた。もっともこれは特に怪しむことではない。当時のアメリカには常備軍が 10,000人程度しか存在しておらず、開戦に際し急ごしらえで軍を仕立てるために、土地の名士などを能力、経験抜きで高級将校にして従軍させるような事 例が多くあったのである。そういった将校のほとんどは使い物にならなかったのもまた事実なのだが、バターフィールドは、J・L・チェンバレンやS・ムルホ ランドらと並ぶ、そういった中の数少ない例外の1人だった。
1862年6月、北軍のポトマック軍司令G・マクレランは、隷下部隊に対しヨークタウン半島を経由しての南部首都リッチモンド攻略作戦を下令。い わゆる半島戦役、「リッチモンド手前7日間の戦」が始まる。しかしこの作戦は失敗だった。南軍の中核、北ヴァージニア軍を完全に掌握した名将R・E・リー と、その片腕「ストーンウォール」・ジャクソンの巧妙な防御作戦の前に、マクレランは結局軍を退かざるを得ない状況に追い込まれてしまうのである。
翌7月、半島戦役に参加していたバターフィールドと彼の部隊は、ヨークタウン半島から撤退してヴァージニア州のハリソンズ・ランディングに駐屯してい た。彼自身はこの戦役の中で、後に名誉勲章を授与されるほどの働きを見せて奮戦したのだが、多くの部下を失った悲しみが、彼と部隊とを包んでいた。半島戦 役に散った将兵の数は、両軍合わせて約11,000。バターフィールドは部隊のラッパ手、オリバー・ノートンの補助を受けながら、彼らを追悼するための 曲、「Taps」を作曲。後、軍上層部にもその出来のよさが認められて全軍で用いられるようになり、この21世紀の現在に至っても「Taps」はアメリカ で一番有名なラッパ曲として健在である。
バターフィールドは後、軍司令部より現場から引き抜かれ、参謀としてゲティスバーグ戦やアトランタ戦などに参加。上層部からの覚えは相当めでた かったようだが、一般将兵からは「リトル・ナポレオン」のあだ名を賜っていた。褒め言葉ではない。尊大で口うるさいところから付けられた名だという。また 「Taps」以外にもいくつかのラッパ曲を作曲していたりしたらしい。
戦後は一時募兵局でデスクワークにいそしんでいたが、やがて軍を退職してビジネス界に復帰。ただ軍との関係は終生続き、高名な将軍たちの葬儀委員長など をしばしば買って出ている。1901年に死去するが、その墓はなぜか、終生一度も正規の軍事教育を受けたことが無いにも関らず、ウェスト・ポイント、米陸 軍士官学校にある。
(正会員 小川寛大)

ゲティスバーグ戦149周年 映画『ゲティスバーグの戦い』上映会報告

「諸君、ここが連邦の左端だ。決して退くな!」
(『ゲティスバーグの戦い』リトル・ラウンド・トップの1シーン)

先日告知させていただきましたとおり、7月1日のゲティスバーグ戦149周年記念日に、東京都新宿にて映画『ゲティスバーグの戦い ‐南北戦争運命の三日間‐』の上映会を開催いたしました。
突然の告知で、かつ4時間以上もある大作であり、人はほとんど来ないだろうと事務局では考えていたのですが、結果として会員、非会員の方あわせて5人もの方々に集まっていただき、盛大裡に終わらせることができました。正会員として登録していただいた方も1人おられ、これで本会は7人体制となりました。大変ありがとうございます。
上映会終了後、正会員3人にて、場を上映会場そばの喫茶店に移し、今後の会運営について話し合いを持ちました。その結果、ゲティスバーグ戦150周年となる来年、会として訪米団を組むことを正式に決定いたしました。訪米時期などについては今後さらにつめ、年末から年明けにかけて正式発表したいと思いますが、多くの方々とともにアメリカ訪問ができれば、これ以上ない幸せと思います。
その後、「リーはやはり名将ではない」「スチュアートの失態と騎兵戦の現実」「アイリッシュ旅団は本当に悲劇の美談なのか」「対英仏外交戦からみるマクレランの無能」「南北戦争をダメにしたナポレオン信仰という病」といった懇談を交えて散会といたしましたが、ご参考のため、その懇談の一部を文字化して提示してみたいと思います。このような会話を楽しんでいる集団です。なお、この書き起こしについては、事務局に一切の文責があります。

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A「映画『ゲティスバーグ』は、やはり南軍側の主人公がロングストリートだから、リーをそう評価した描き方をしていない。むしろ見ようによっては愚将とでもいえるような感じになっている」
B「ただピケット・チャージはやはり愚策だから。なんであんなことをしてしまったのか」
C「そう、あれをやってしまったという事実がある限り、リーは決して名将ではない。そもそも、彼はアンティータムも失敗している。北部へ遮二無二攻めるという戦略は、彼が企図して推進したことなんだから、それに失敗している時点でね。南部に欠くべからざる人だったし、素晴らしい人格者なんだが、やはり名将というのとはちょっと違う」
A「あせっていたんだろうか。そもそもゲティスバーグ2日目で、本来の戦略的意図は完全に破綻しているわけだし」
C「だったら2日目で軍を退くという選択肢もあったんじゃなかろうか。北部でそれをやったら軍司令官解任だろうが、南部では許されたと思う」
B「いや、リーはもうこれを逃したら、南部が攻勢に移る機会はないと考えていたはず。何かやらなきゃいけなったんだろう」
C「南軍の中では、際立って異様な戦略を持っていた人だから」
A「やはりそこであせって退けなくなったのか」
B「にしても中央突破でピケット・チャージは筋が悪すぎる」
A「スチュアートが勝手に戦場を離れていたという点、映画ではそう強調されてはいなかったが、重要なポイントだ」
B「軍の目である、重要な斥候部隊が完全に行方不明だったんだから」
C「ただ南軍の部隊に相互連絡がないというのは、もうお家芸だから。半島戦役では斥候部隊どころか、重要な実戦部隊が戦場で突然行方不明なんてことがあったし。ファースト・ブルランだって…」
B「あれは南軍の大勝とされてるけれども…」
C「あの戦闘の決着したその時点で、南軍側に『われわれは勝った!』と正確に把握してた人間なんていない。部隊間の横の連絡は何もないし、上級司令部に情報を上げる者だっていない。単に『北軍が撤退した』というだけで、南軍側は自分たちが勝ったことも分かってなかったはず。ましてや追撃なんてとても…」
A「でも北軍はわりと初期からそういう点がきちんとしている」
C「よくも悪くも役所的、官僚的な陣営なんだ」
B「あと、南軍というのは、結局土地の名士である奴隷農園主が、地元の若い者を集めて結成した、悪い意味での『村の消防団』みたいなもの。それで指揮官は金持ちのボンボンで、まあ社会性がない。でも北軍の指揮官というのは、戦争が始まる直前まで、弁護士だったり銀行家だったり、鉄道会社に勤めてたりと、きちんとした社会経験のある人が多い」
C「社会人経験って、こういうところでも大事なんだということか」
A「ところで『Gods & Generals』もそうだが、この映画シリーズはアイリッシュ旅団の扱いがなかなかいい。ピケット・チャージを支えきったのは、ニューヨーク州第69連隊だったような描き方だし」
B「『Gods & Generals』ではフレデリックスバーグ戦が泣けた。南北に分かれた同じアイリッシュ部隊が泣きながら撃ち合うという…」
C「まあ、映画としてはね、なかなか泣かせる展開だけれども、あそこまで美化できるものかなあというのはある。もともとアイルランドには、アルスター地方(北アイルランド)とそれ以外の地域の、壮絶な地域間対立があった。また、ニューヨーク州第69連隊を中心としたアイリッシュ旅団は、トマス・マハーという、後のIRAの系譜にもつながる革命家が率いていた部隊で、非常に政治的な背景がある。アイルランド本国人だって、みんながマハーのような人物を肯定しているわけじゃない。ジャガイモ飢饉によるアイルランド移民の大流出というのは、そういうアイルランド国内の対立構造を、他国にそのまま移植してしまったような現実もあるわけで…」
B「フレデリックスバーグで撃ち合ったのにも、何かそれなりの理由があるんじゃないかと」
C「そういうこと。ちゃんと調べなきゃいけない話だが、単なる悲劇の美談にしていいのかというのはある」
A「アイルランドつながりということで、イギリスの話題を。映画に南軍陣営にいるイギリスの観戦武官がいたけれども…」
B「まあ、これは後知恵で言うわけだが、英仏が南部の独立を承認することなんて、絶対にありえない」
A「そうだろうね」
C「それにはまったく同感なんだが、でもやっぱりそれは後知恵。当時としては、やっぱりリンカーンは英仏の動向が怖くて仕方なかったと思う」
B「それは確かに」
C「だからとにかくこの戦争を早急に片付けなくちゃいけないと。兵隊の練度とか、純軍事的条件とか、度外視にしてもいい。とにかくリッチモンドめがけて、矢継ぎ早に兵隊の血肉をぶつけて、南部を一刻も早く叩き潰さないとというのがあった」
B「それゆえのあの犠牲と」
A「だからやっぱり、マクレランは評価されないわけで」
B「グラントのようなのが、リンカーンにとっての英雄だったわけだ」
C「マクレランというのは、本当にナポレオンになりたかったのかな」
A「それはそうだと思う。これはマクレランに限らず、南軍側の将軍にも多いんだが、とにかくやたらと機動戦をやりたがる」
C「ああ、フランク(側面)、フランクと…」
B「ナポレオン型だね。ただ、南北戦争でそれはほとんど成功しないんだけど」
A「とにかく状況がナポレオン時代とはまるで違う。政府のあり方も違うし、武器の性能も違う。国土のあり方だって違う」
B「そういう何もかも違う場所で、ナポレオン流の精緻な『軍事技術ショー』をやろうとした将軍がたくさんいて、そして彼らはまったく成功できずに、えらい目にあって表舞台から消えていく」
A「ナポレオン信仰というのは、南北戦争において罪深いと感じるね」
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(事務局)