早朝、アップトン将軍にたたき起こされた。ノドの痛みが引かず、ほとんどしゃべれない状況だというのに。
将軍は人払いをすると、私の今後のスケジュールについて話し始めた。やはり目的地はワシントンとのことだ。逃亡中だった、わがアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デービス氏は逮捕され、クレメント・C・クレイ上院議員も北軍に出頭した。彼らとまとめて、私もワシントンへ護送されるのだそうだ。
ただ将軍は、ワシントンまでどうやって行くのかについては選ばせてくれるのだという。ダルトンからの鉄道で向かうか、サバナまで出て海路を取るかの2通りから選べるとのこと。私は海路を選びたかったが、同じく海路を希望しているというデービス氏と同道するのは嫌だと、率直に将軍に告げた。彼は、軍で手配できる船が1隻しかないので、別便を仕立てることは不可能だが、なるべく離れた船室を割り当てるよう努力すると言ってくれた。この日は彼と話す機会がたびたびあったが、彼は常に礼儀正しく、私は少なからず好感を持った。
昨日と同じく、友人たちが訪ねてきてくれた。ダンカン氏からは、ウィスキーの差し入れがあった。また彼は、ヨーロッパの金融会社に預けてある資産のことを話し、その金について、私が自由に活用できるよう手はずを整えているところだと言った。私は心底うれしかったが、もう私には、そんな大金を必要とする人生は用意されていないだろうと断った。ただ彼からは、それでも自分の望む手続きだけはさせてほしいとの申し出があった。
クーパー少佐が、パウエル医師とシモンズ医師、そして数人の女性たちを呼んでくれた。すぐそばに迫った別れに、彼らは目を真っ赤にしていた。パウエル夫人とスラッシャー夫人が、私のベッドのシーツを清潔なものに取り替えてくれた。
フェリックスが、トゥームズ将軍と別れた後の話を聞かせてくれた。将軍はアメリカを去るに当たって、アーカンソーの政治家だったセバスチャン氏にフェリックスを売ったとのことだ。戦争の終結まで、彼は同氏のコックを務めていたそうだ。セバスチャン氏はメンフィスで健在だそうだが、さすがに奴隷は保有し続けられない。フェリックスも含めてセバスチャン氏の奴隷は、北部の医師であるリトル氏の使用人として働くこととなったそうだ。
フェリックスは私に、ピアースの近況を聞きたがった。ワシントン時代に、私の身の回りの世話をしていた奴隷の少年だ。確かに、フェリックスとピアースは非常に懇意だった。私はフェリックスに、ピアースはもう数年前に自由黒人の身分にしてあげたことを話した。今は確かメーコンにいるはずだとも。ぜひ手紙を書いてあげてほしい、そうすれば彼も喜ぶはずだと付け加えた。
アンソニーが、今後の旅路にフェリックスを同行させてはどうかと提案してきた。しかしそれはリトル医師の判断もあるだろう。それに、私自身の運命が今後どうなるものか、何も分らない。
夕方にアイオワ連隊のピーターズ大佐がやって来た。そういえば戦争前、アイオワ選出のG・W・ジョーンズ上院議員に紹介されたのを覚えている。彼も再会を喜んでいるようで、昔話で盛り上がった。
窓の外には夜の帳が下りようとしていた。私に空を飛ぶ鳥の目があれば、捕われの身である私のみじめな姿から何を見て取ることができるだろう。ああ、見えてきたのは1860年のダグラスの演説だ。私は彼の主張に、恐ろしい何かを感じていたのだ。今の苦境に比べれば大したことではないものの、聞いていて心臓が締め付けられるようだった。あるいは私の今の苦しみとは、そうした主張がはびこっていくのに何の手も打てなかったことへの罰なのかもしれない。
皮肉なことに、そうした回想に浸っている間、私の肉体は少しの安息を得ることができた。そのような回想を頭に浮かべるということをもって、私を南部の裏切り者とする意見もあるかもしれない。しかし私は今、北部に逆らった南部連合を代表する1人として、ここに捕われている。もっとも、私は南部の政府内でほとんど何もしなかった。当時はそれが正しいことだと思っていたのだが、辞表を書いていた方がよかったのだろうか。
午後9時、アップトン将軍が、11時に列車が発車すると伝えに来た。自宅に手紙を書く最後のチャンスだろう。もう少し衣服がほしい旨、書きつづった。これを見た家族が、クローフォードビルまで来てくれればいいのだが。リントンにも自分の状況を知らせる手紙を書いた。
アップトン将軍に、アンソニーの弟であるヘンリーのことについて話した。彼らの母親はリッチモンドにいる。できれば連れて行ってやりたいと。将軍は許可してくれた。ギルピン大尉が私のサインを欲しがったので、それに応じた。11時を少し過ぎたころ、私を乗せた列車は走り始めた。
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Stephen Arnold Douglas (1813–1861)
文中に出てくる1860年に演説したダグラスとは、南北戦争開戦前夜の奴隷擁護派随一の論客にして、リンカーンの最大の政敵だったスティーブン・ダグラスのことです。1860年の大統領選ではリンカーンと激しく争った相手です。ただ自由州であったイリノイ州出身だった彼は、南部人ほど露骨には奴隷制を擁護することができず、この時の主張は率直に言って曖昧模糊かつ複雑怪奇。選挙戦にも敗れます。スティーブンスは生粋の南部人として、ダグラスの主張を非難しているわけです。しかしダグラスのような奇形的政治主張から、スティーブンスはそういうものを生んでしまった南北のどうしようもない対立の根深さに絶望していたのかもしれません。
(翻訳・解説 正会員・小川寛大)