2012年7月5日木曜日

ラッパ将軍バターフィールド

ダニエル・バターフィールド
(Daniel Adams Butterfield 1831-1901)

先日開催しました『ゲティスバーグの戦い』上映会の上映作品中、登場人物であるトム・チェンバレンが、メーン州第20連隊が所属する旅団の信号ラッパについて語るシーンがありました。本筋には何ら関係のなかった話ですが、参考のため、そのトムの話に出たダニエル・バターフィールド将軍の小伝を掲載します。本会会員がかつてほかの所で執筆したものを、そのまま転載するものです。

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アメリカ軍の軍隊ラッパに「Taps」というものがある。葬送の際に用いられるもので、「実用音楽」たる信号ラッパながら、ゆったりとした哀愁のある名 曲である。このラッパ譜ができたのは南北戦争中のことなのだが、作ったのは軍楽隊員ではなく、ダニエル・バターフィールドという北軍の将軍だった。


バターフィールドの父は、今なおアメリカに存続する大企業アメリカン・エクスプレスの創設者で、1831年ニューヨークに生まれた彼も、大学を出てその会社に勤めるビジネスマンであった。
1861年春、そんな彼は南北戦争の勃発と共に北軍に志願。民兵団に参加していたくらいで、特段それまで軍事教育のようなものは受けたことが無かった彼 だが、その年の秋にはトントン拍子で旅団指揮官たる将軍(准将)までになっていた。もっともこれは特に怪しむことではない。当時のアメリカには常備軍が 10,000人程度しか存在しておらず、開戦に際し急ごしらえで軍を仕立てるために、土地の名士などを能力、経験抜きで高級将校にして従軍させるような事 例が多くあったのである。そういった将校のほとんどは使い物にならなかったのもまた事実なのだが、バターフィールドは、J・L・チェンバレンやS・ムルホ ランドらと並ぶ、そういった中の数少ない例外の1人だった。
1862年6月、北軍のポトマック軍司令G・マクレランは、隷下部隊に対しヨークタウン半島を経由しての南部首都リッチモンド攻略作戦を下令。い わゆる半島戦役、「リッチモンド手前7日間の戦」が始まる。しかしこの作戦は失敗だった。南軍の中核、北ヴァージニア軍を完全に掌握した名将R・E・リー と、その片腕「ストーンウォール」・ジャクソンの巧妙な防御作戦の前に、マクレランは結局軍を退かざるを得ない状況に追い込まれてしまうのである。
翌7月、半島戦役に参加していたバターフィールドと彼の部隊は、ヨークタウン半島から撤退してヴァージニア州のハリソンズ・ランディングに駐屯してい た。彼自身はこの戦役の中で、後に名誉勲章を授与されるほどの働きを見せて奮戦したのだが、多くの部下を失った悲しみが、彼と部隊とを包んでいた。半島戦 役に散った将兵の数は、両軍合わせて約11,000。バターフィールドは部隊のラッパ手、オリバー・ノートンの補助を受けながら、彼らを追悼するための 曲、「Taps」を作曲。後、軍上層部にもその出来のよさが認められて全軍で用いられるようになり、この21世紀の現在に至っても「Taps」はアメリカ で一番有名なラッパ曲として健在である。
バターフィールドは後、軍司令部より現場から引き抜かれ、参謀としてゲティスバーグ戦やアトランタ戦などに参加。上層部からの覚えは相当めでた かったようだが、一般将兵からは「リトル・ナポレオン」のあだ名を賜っていた。褒め言葉ではない。尊大で口うるさいところから付けられた名だという。また 「Taps」以外にもいくつかのラッパ曲を作曲していたりしたらしい。
戦後は一時募兵局でデスクワークにいそしんでいたが、やがて軍を退職してビジネス界に復帰。ただ軍との関係は終生続き、高名な将軍たちの葬儀委員長など をしばしば買って出ている。1901年に死去するが、その墓はなぜか、終生一度も正規の軍事教育を受けたことが無いにも関らず、ウェスト・ポイント、米陸 軍士官学校にある。
(正会員 小川寛大)

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