南北戦争の有名人といえば、リンカーン大統領にリー将軍、フレデリック・ダグラスにアンブローズ・ビアス、ホイットマンと目白押しですが、「全日本南北戦争フォーラム」として第1回目に紹介したいのは、ウィリアム・スミス・クラークです。そう、明治初期にお雇い外国人教師として来日し、札幌農学校で「青年よ、大志を抱け」と語って多くの日本人の胸にその名を刻みつけた、あの「クラーク博士」です。
彼は教師であるとともに、南北戦争に北軍軍人として従軍し、大佐まで昇進して1個連隊を率いていた歴戦の勇士でした。
ウィリアム・スミス・クラーク
(William Smith Clark 1826-1886)
札幌市・羊ヶ丘展望台のクラーク像
1877年4月16日とのことといいます。札幌農学校教頭の職を辞し、北海道を去ろうとするクラークの周囲に名残おしく集まった教え子や同僚に向かい、彼はひらりと馬に飛び乗るや「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」と叫び、駒とともに疎林へ消えました。
教え子の中には、後に北海道帝国大学総長となる佐藤昌介や、石橋湛山を育てた教育者・大島正健らがいました。また、後に彼らの薫陶を受けて農学校で育つ後輩には、新渡戸稲造や内村鑑三たちがいました。
このときこそが、クラークの人生の絶頂点でした。そう、つまり、この後のクラークの人生とは、ただひたすらに落ちていくものでしかなかったからです。
クラークは1826年7月26日、アメリカ北部のマサチューセッツ州アッシュフィールドに、医者の息子として生まれました。母方の祖父は上院議員まで務めた人物で、また父は土地の富豪と非常に親密な仲だったというのですから、間違いなく上流階級です。
成長したクラークは地元のアーマスト大学に入学し、化学を専攻します。しかしこのアーマスト大学は牧師の養成校としても知られた学校で、クラークはキリスト教への篤い信仰心をも、この学び舎で育みます。この信仰心が、後に札幌農学校の中に移入され、新渡戸や内村といった日本を代表するキリスト者たちへの系譜に連なっていくのです。
クラークはその後、ドイツに留学して博士号を取得。1852年に母校・アーマストで農芸化学の教授となります。後に北海道に渡り、日本の教育界に伝説的な名を残しているほどの彼です。教育者としての才は申し分なかったそうですが、また図書館建設のため募金活動や、火災で失われた寮の再建運動などにも見事な手腕を発揮し、マサチューセッツの名士となっていきます。
そんな1861年4月、アメリカを真っ二つに割る南北戦争が勃発します。同戦争の口火を切ったサムター要塞の戦いが行われた直後、クラークはアーマストで開かれた全学集会でアメリカ独立宣言を読み上げ、学生や同僚たちに合衆国(北部)への変わらぬ忠誠を呼びかけたといいます。
クラークは学生を集めて義勇連隊の結成を企図。結局これは実を結びませんでしたが、8月にはマサチューセッツ州第21連隊の軍人として、教職をなげうち出征するのです。
35歳の大学教授の行動と考えれば、現在の日本の価値観では驚く人も多いかもしれません。しかし当時のアメリカは北も南も、戦争への熱狂で興奮状態でした。クラークのごとく、年齢も社会的地位も乗り越えて軍に志願する人間は、山のようにいました。
クラークはその教養と社会的地位を買われ、最初から少佐として従軍します。土地の名士は兵隊集めの一種の「看板」にもなりましたから、こうした措置は当時、決して珍しいことではありませんでした。
21連隊はしばらく訓練に集中し、初陣を飾ったのは1862年の2月、ノースカロライナ州で行われたロアノーク島の戦いでのことでした。この戦いは北軍の大勝に終わったのですが、この「実際の戦闘経験」を得た辺りから、クラークの戦争への熱情には揺らぎが見え始めます。開戦時の高揚感から遠く離れ、実際に人が死傷する現場を見て、クラークはもう軍を辞めようと思うようになったのです。
ちなみにこの感情は、決してクラークが特別に臆病だったからではありません。開戦時の熱狂とともに軍に殺到した志願兵たちが、この時期に共通して持ち始めた感情で、末端の兵士たちの間ではすさまじい勢いで脱走が「流行」し始めます。
ただクラークは職務には忠実でした。ロアノーク島の戦いの1ヶ月後に行われたノースカロライナ州ニューバーンの戦いでは、勇敢に敵陣に突撃。敵の大砲を自ら馬乗りになって分捕り、北軍を戦勝に導く大活躍をしています。
「『来た、見た、勝った』(カエサルの言葉)という感じの勝ちっぷりだった。色あせ、銃弾で穴の開いた星条旗を掲げ、われわれは堂々と進んでいる」 とは、戦闘後にクラークが友人に送った手紙の一節です。そして3月中に中佐に昇進したかと思うと、翌月には大佐に昇進。拡大する戦線に対応するため部隊を急造せねばならず、そのため指揮官さえをも急ごしらえでつくる必要性があった当時のアメリカでは、南北ともに、このような「乱暴な人事」がしばしば行われていました。しかしそれでも、無能者は「乱暴な人事」の恩恵にさえあずかれません。
「クラーク大佐ほど評判のいい指揮官はいない。司令部の評価も同じで、大佐が欲しがるものならば、国は何でも与えるだろう」
以上はクラークを評した当時の新聞記事ですが、学者上がりの「中年軍人」は、軍に志願して1年もたたずに、ここまでの栄光を手にしていたのです。
しかし1862年9月のチャンティリーの戦いで、21連隊は手ひどい打撃を受けます。南軍の猛将、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソン将軍に一蹴され、21連隊は壊走するのです。クラークも副官や従卒らをすべて殺され、たった1人で森に身を潜め戦場から離脱するなど、散々な目にあいます。
クラークの所在は一時不明となり、新聞には死亡記事までもが出ました。「『クラーク大佐が戦死し、遺族はその遺体の返還を望んでいる』か。どれ、自分自身で“返還”しに行くか」とは、生還後、その「自分の死亡記事」を読んでクラークがユーモアたっぷりに語った言葉といいますが、この敗北により、クラークはこれ以上軍人を続けていく気持ちをまったく喪失してしまします。クラークは将軍への昇進をひそかに狙っていたともいいますが、このような指揮ぶりを露呈し、その可能性も失われてしまいました。
「私はここに辞表を提出し、合衆国から名誉ある解任の命を承りたいと望む。その理由は、わが連隊の規模が縮小してしまい、現状況においては、私は軍隊よりも民間にあった方が、国家に貢献できると考えたからである」
1863年4月、クラークは上記のような辞表を提出し、軍を去りました。
しかしマサチューセッツにおいて、クラークの声望はまったく揺らいではいませんでした。むしろ「国家に尽くした偉大な愛国者」として迎えられ、戦後は新設のマサチューセッツ農科大学の学長に就任します。
1876年、クラークは日本政府から、 北海道開拓使の札幌農学校教頭にと請われ、太平洋を渡ります。前年に設立された農学校を実質的につくりあげたのは、クラークと同じマサチューセッツ出身で、これまた同じく南北戦争時に北軍に従軍し、そして将軍となり、戦後、合衆国政府の農務局長を務めた農学者、ホレース・ケプロンでした。ケプロンはクラークと入れ替わりに日本を去っていますが、この縁があったからこそのクラーク来日でした。
本稿は、「日本時代のクラーク」を詳述することを目的としません。しかし日本滞在期間わずか8ヶ月でありながら、札幌農学校において生徒たちにただ1つ「紳士たれ(Be gentleman)」の校訓を示し、キリスト教の精神に裏打ちされた高潔な人格でもって北海道開拓の基礎となる有為の人材を育てた功績は、いまなお日本で広く語られています。離日時の「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」の声は、まさにその仕事の集大成であり、絶頂点でした。
しかし帰国後のクラークの生活は悲惨でした。クラークは「洋上大学」という、大型の船に学校施設を備え付け、世界中の青少年を教導して回ろうという途方もない構想に取り付かれ、見事に失敗。その後は山師的な人物にだまされて鉱山経営に乗り出し、破産して一文無しになってしまうのです。
もはやクラークはマサチューセッツの名士ではありませんでした。背負った借金による、いくつもの裁判を抱えた、みすぼらしい敗残者でした。不幸なことにクラークは心臓病にも侵され、寝たきりのような生活を強いられます。1886年3月9日、クラークは59歳でその生涯を閉じます。
現在のアメリカにおいて、クラークはまったく無名の人物です。彼は結局、学者としても軍人としても挫折者でした。
しかし日本での名声はご存知の通りです。そしてクラークを北海道に招いたケプロンとの間にあった「南北戦争」という縁がなければ、「札幌農学校クラーク教頭」の誕生もまたなかったのだと考えれば、日本人として、南北戦争と言うものの存在の大きさを感じざるを得ません。
正会員・小川寛大
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