2012年5月24日木曜日

南北戦争と西部劇

古書店にて、1962年2月に発行された『拳銃ファン』(小出書房)という雑誌を購入しました。目当ては表紙に踊る「グラビア立体特集・想出の南北戦争史」です。
ガン・マニア向け雑誌は今の日本でも発行されており、それらのほとんどは世界の軍や警察の姿を追う一種のミリタリー雑誌ですが、この『拳銃ファン』はそれらとは一風異なります。クイック・ドロー(早撃ち)の技術解説が載っていたり、アメリカ・インディアンの歴史を紐解く連載があったりと、その全体からは「西部劇」の香りが漂ってくるのです。南北戦争特集のトップを飾る「銃器 南北戦争史」という記事も、「西部の銃器」という連載の2回目であると記されています。
1962年といえば、絶頂期ではないにせよ、西部劇が非常な人気を博した時代です。西部劇の伝説的スター、ジョン・ウェインが『リバティ・バランスを射った男』で老いてなお十分な貫禄を見せつけ、「西部劇」という言葉の体現者といっても過言でない映画監督、ジョン・フォードが、19世紀後半の西部を描き切った大河映画『西部開拓史』を世に問うた年です。
この『拳銃ファン』を見るに、どうもそうした時代にあった「銃砲趣味」とは、西部劇人気と支えあって存在したものらしく、それゆえの「南北戦争特集」であったのだろうと推察するところです。
『拳銃ファン』はあくまで銃器雑誌で歴史雑誌ではなく、ためにその視点は実に新鮮です。南北戦争で用いられた銃器の種類をマニアックに考察し、戦争中にあった銃器の進化や、サミュエル・コルトら著名な銃器職人の動向についても詳しく解説してあって、目からウロコの面も少なくありません。21世紀の今、西部劇などというものは実に古臭い映画ジャンルだと思われているわけですが、それが支えていた芳醇な「趣味のフィールド」がかつて存在し、そして今ではそれらをほとんど目にすることが出来ないことをについて、南北戦争ファンの1人として、ページを繰りながらなにやら悲しくなってくるくらいです。
そして西部劇といえば銃とともに馬です。この特集には「南北戦争騎兵隊戦記」という記事があり、ジェブ・スチュアートやシェリダン、カスターといった著名な騎兵隊長はもちろん、フォレストやモズビーのような騎兵ギャング、またキルパトリックやジェームズ・ウィルソンといった、知る人ぞ知る騎兵将校についてまで詳細な紹介記事が書かれていてためになります。
シェナンドー渓谷での破壊作戦を指してか、「地獄将軍シェリダン」などと紹介されているところなどは、「西部劇の香り」が感ぜられて面白いところです。
この雑誌でさらに特筆すべきところは、南北戦争の開戦原因を一貫して「奴隷解放のため」だとしているところです。確かに、この時代ではまだ「南北戦争は奴隷解放のための聖戦であった」とする史観が、アメリカにおいてさえ主流でした。現在では南北の経済構造の差異や、州の権限を巡る合衆国憲法解釈のあり方などが、奴隷制問題と複雑に絡み合って起きたとされる声が圧倒的多数です。ゆえにここまで清々しく「奴隷解放のため起きた」と言い切る記事群には、逆に何か新鮮なものを感じれしまうほどです。

西部劇がその後廃れたのは、インディアンに対する差別的的描写への批判や、ベトナム戦争に敗れたアメリカの映画界が、ジョン・ウェイン流の「強く正しいアメリカ」 を描くのに躊躇するようになったことなどが主要な原因として挙げられます。なるほど、それらはすべて根拠のある意見です。南北戦争を「奴隷解放戦争」とみなす史観も含めて、今そうした「ジョン・ウェイン流」に基づいて映画や雑誌をつくることはほとんど不可能と言っていいでしょう。しかし、そうしたある意味での乱暴な「強く正しいアメリカ」を躊躇なく表現できた時代だからこそつくりえた、「面白い映画・雑誌」もまたあったのです。
真実、正義、権利などというものは、政治的、社会的状況によっていくらでも変わる。少なくとも、真実については揺るぎがあってはいけないはずなのだが、これが人間の弱さだ。 
とは、アメリカ南部連合国のアレクサンダー・スティーブンス副大統領が残した言葉です。 現在の西部劇観、南北戦争観も、また不変ではないでしょう。しかしこの時代に生きた南北戦争ファンとして、われわれもまた、「この時代だからつくれた面白い南北戦争モノ」を支え、また可能であればつくっていきたいものだと感じた次第です。

※本雑誌は6月2日に行われる本会総会に持参したいと思っております。ご関心のある方は直接お手にとってご講評ください。

正会員・小川 寛大

2012年5月18日金曜日

6月2日、東京都江戸川区で本会総会を行います。『The Conspirator』を上映

全日本南北戦争フォーラムの2012年度総会を、下記の日程で行います。
正会員の皆様はふるってご参加ください。
部外の方々も、一部についてはご参加になれます。

全日本南北戦争フォーラム2012年度総会
日時:2012年6月2日 16時30分~
場所:東京都江戸川区コミュニティプラザ一之江 第4集会室
東京都江戸川区一之江7-35-22 都営地下鉄新宿線一之江駅直結 詳細は下記サイト
http://www.city.edogawa.tokyo.jp/shisetsuguide/bunya/bunkachiiki/c_plaza_ichinoe/index.html
参加費:正会員は会場使用料金を頭割り負担願います(500円前後を想定)、外部の方は無料

〈内容〉
第1部:映画『The Conspirator』上映会(外部の方も参加可能)
監督:ロバート・レッドフォード
出演:ジェームズ・マカボイ ロビン・ライト ケビン・クライン
2011年 アメリカ映画 日本未公開 122分

(あらすじ)
1865年4月14日、南北戦争の終結直後、ワシントンの劇場でリンカーン大統領が南軍シンパの俳優に殺害される。実行犯は捜査途中で死亡。当局は共犯者を根こそぎ逮捕し、軍事法廷で裁くことを決定。元北軍軍人の弁護士、フレデリック・エイキンは、指名を受けて気の進まないまま被告の弁護を引き受けるが、そのまったく人権無視の裁判の進め方に衝撃と疑問を感じ始める…。リンカーン大統領の暗殺は、戦勝気分に沸いていた北部を絶望のどん底に叩き落す事件でした。リンカーンの後継者をもって任じたスタントン陸軍長官は、事件に何も関係ないような人物までをも逮捕。陪審員なし、控訴も認めないという人権無視の法廷で、買収した証人の「証言」に基づく、結論ありきの裁判を展開します。この裁判で死刑になった被告の中には、現在の研究ではまったくの無罪だったとされる人物まで含まれているのです。ハリウッドきってのリベラル派として知られるロバート・レッドフォードが、南北戦争開戦150周年の年に放った「人権映画」を、この機会にぜひご覧ください。


第2部(正会員のみ参加可能)
役員人事・規約改定
ディスカッション「リンカーン暗殺とは何だったのか」

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
事務局

5月24日、日本女子大で講演「リンカーンの英米文学史」

(グラント、リンカーン、スタントンの彫像 アメリカ国立肖像画美術館蔵)

5月24日の15時45分より、東京・目白の日本女子大学で英語英文学会の春季講演会「リンカーンの英米文学史」が行われるとのことです。
詳細は下記。
http://www.jwu.ac.jp/grp/lecture_news/2012/20120524.html
講師の巽孝之氏は慶応大学教授で、2002年に『リンカーンの世紀 アメリカ大統領たちの文学思想史』(青土社)を上梓しておられます。
日本で南北戦争関係の講演会が行われるのは大変稀なことです。
一般参加も可能とのことですので、当日は当会事務局も聴講にうかがい、本サイトでレポートなども行おうと考えております。
事務局

クラーク博士の戦歴

「Who's Who」と題し、不定期で南北戦争で活躍した人々の小伝を掲載していきたいと思います。
南北戦争の有名人といえば、リンカーン大統領にリー将軍、フレデリック・ダグラスにアンブローズ・ビアス、ホイットマンと目白押しですが、「全日本南北戦争フォーラム」として第1回目に紹介したいのは、ウィリアム・スミス・クラークです。そう、明治初期にお雇い外国人教師として来日し、札幌農学校で「青年よ、大志を抱け」と語って多くの日本人の胸にその名を刻みつけた、あの「クラーク博士」です。
彼は教師であるとともに、南北戦争に北軍軍人として従軍し、大佐まで昇進して1個連隊を率いていた歴戦の勇士でした。
 ウィリアム・スミス・クラーク
(William Smith Clark 1826-1886)
札幌市・羊ヶ丘展望台のクラーク像

1877年4月16日とのことといいます。札幌農学校教頭の職を辞し、北海道を去ろうとするクラークの周囲に名残おしく集まった教え子や同僚に向かい、彼はひらりと馬に飛び乗るや「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」と叫び、駒とともに疎林へ消えました。
教え子の中には、後に北海道帝国大学総長となる佐藤昌介や、石橋湛山を育てた教育者・大島正健らがいました。また、後に彼らの薫陶を受けて農学校で育つ後輩には、新渡戸稲造や内村鑑三たちがいました。
このときこそが、クラークの人生の絶頂点でした。そう、つまり、この後のクラークの人生とは、ただひたすらに落ちていくものでしかなかったからです。
クラークは1826年7月26日、アメリカ北部のマサチューセッツ州アッシュフィールドに、医者の息子として生まれました。母方の祖父は上院議員まで務めた人物で、また父は土地の富豪と非常に親密な仲だったというのですから、間違いなく上流階級です。
成長したクラークは地元のアーマスト大学に入学し、化学を専攻します。しかしこのアーマスト大学は牧師の養成校としても知られた学校で、クラークはキリスト教への篤い信仰心をも、この学び舎で育みます。この信仰心が、後に札幌農学校の中に移入され、新渡戸や内村といった日本を代表するキリスト者たちへの系譜に連なっていくのです。
クラークはその後、ドイツに留学して博士号を取得。1852年に母校・アーマストで農芸化学の教授となります。後に北海道に渡り、日本の教育界に伝説的な名を残しているほどの彼です。教育者としての才は申し分なかったそうですが、また図書館建設のため募金活動や、火災で失われた寮の再建運動などにも見事な手腕を発揮し、マサチューセッツの名士となっていきます。
そんな1861年4月、アメリカを真っ二つに割る南北戦争が勃発します。同戦争の口火を切ったサムター要塞の戦いが行われた直後、クラークはアーマストで開かれた全学集会でアメリカ独立宣言を読み上げ、学生や同僚たちに合衆国(北部)への変わらぬ忠誠を呼びかけたといいます。
クラークは学生を集めて義勇連隊の結成を企図。結局これは実を結びませんでしたが、8月にはマサチューセッツ州第21連隊の軍人として、教職をなげうち出征するのです。
35歳の大学教授の行動と考えれば、現在の日本の価値観では驚く人も多いかもしれません。しかし当時のアメリカは北も南も、戦争への熱狂で興奮状態でした。クラークのごとく、年齢も社会的地位も乗り越えて軍に志願する人間は、山のようにいました。
クラークはその教養と社会的地位を買われ、最初から少佐として従軍します。土地の名士は兵隊集めの一種の「看板」にもなりましたから、こうした措置は当時、決して珍しいことではありませんでした。
21連隊はしばらく訓練に集中し、初陣を飾ったのは1862年の2月、ノースカロライナ州で行われたロアノーク島の戦いでのことでした。この戦いは北軍の大勝に終わったのですが、この「実際の戦闘経験」を得た辺りから、クラークの戦争への熱情には揺らぎが見え始めます。開戦時の高揚感から遠く離れ、実際に人が死傷する現場を見て、クラークはもう軍を辞めようと思うようになったのです。
ちなみにこの感情は、決してクラークが特別に臆病だったからではありません。開戦時の熱狂とともに軍に殺到した志願兵たちが、この時期に共通して持ち始めた感情で、末端の兵士たちの間ではすさまじい勢いで脱走が「流行」し始めます。
ただクラークは職務には忠実でした。ロアノーク島の戦いの1ヶ月後に行われたノースカロライナ州ニューバーンの戦いでは、勇敢に敵陣に突撃。敵の大砲を自ら馬乗りになって分捕り、北軍を戦勝に導く大活躍をしています。
「『来た、見た、勝った』(カエサルの言葉)という感じの勝ちっぷりだった。色あせ、銃弾で穴の開いた星条旗を掲げ、われわれは堂々と進んでいる」 とは、戦闘後にクラークが友人に送った手紙の一節です。そして3月中に中佐に昇進したかと思うと、翌月には大佐に昇進。拡大する戦線に対応するため部隊を急造せねばならず、そのため指揮官さえをも急ごしらえでつくる必要性があった当時のアメリカでは、南北ともに、このような「乱暴な人事」がしばしば行われていました。しかしそれでも、無能者は「乱暴な人事」の恩恵にさえあずかれません。
「クラーク大佐ほど評判のいい指揮官はいない。司令部の評価も同じで、大佐が欲しがるものならば、国は何でも与えるだろう」
以上はクラークを評した当時の新聞記事ですが、学者上がりの「中年軍人」は、軍に志願して1年もたたずに、ここまでの栄光を手にしていたのです。
しかし1862年9月のチャンティリーの戦いで、21連隊は手ひどい打撃を受けます。南軍の猛将、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソン将軍に一蹴され、21連隊は壊走するのです。クラークも副官や従卒らをすべて殺され、たった1人で森に身を潜め戦場から離脱するなど、散々な目にあいます。
クラークの所在は一時不明となり、新聞には死亡記事までもが出ました。「『クラーク大佐が戦死し、遺族はその遺体の返還を望んでいる』か。どれ、自分自身で“返還”しに行くか」とは、生還後、その「自分の死亡記事」を読んでクラークがユーモアたっぷりに語った言葉といいますが、この敗北により、クラークはこれ以上軍人を続けていく気持ちをまったく喪失してしまします。クラークは将軍への昇進をひそかに狙っていたともいいますが、このような指揮ぶりを露呈し、その可能性も失われてしまいました。
「私はここに辞表を提出し、合衆国から名誉ある解任の命を承りたいと望む。その理由は、わが連隊の規模が縮小してしまい、現状況においては、私は軍隊よりも民間にあった方が、国家に貢献できると考えたからである」
1863年4月、クラークは上記のような辞表を提出し、軍を去りました。
しかしマサチューセッツにおいて、クラークの声望はまったく揺らいではいませんでした。むしろ「国家に尽くした偉大な愛国者」として迎えられ、戦後は新設のマサチューセッツ農科大学の学長に就任します。
1876年、クラークは日本政府から、 北海道開拓使の札幌農学校教頭にと請われ、太平洋を渡ります。前年に設立された農学校を実質的につくりあげたのは、クラークと同じマサチューセッツ出身で、これまた同じく南北戦争時に北軍に従軍し、そして将軍となり、戦後、合衆国政府の農務局長を務めた農学者、ホレース・ケプロンでした。ケプロンはクラークと入れ替わりに日本を去っていますが、この縁があったからこそのクラーク来日でした。
本稿は、「日本時代のクラーク」を詳述することを目的としません。しかし日本滞在期間わずか8ヶ月でありながら、札幌農学校において生徒たちにただ1つ「紳士たれ(Be gentleman)」の校訓を示し、キリスト教の精神に裏打ちされた高潔な人格でもって北海道開拓の基礎となる有為の人材を育てた功績は、いまなお日本で広く語られています。離日時の「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」の声は、まさにその仕事の集大成であり、絶頂点でした。
しかし帰国後のクラークの生活は悲惨でした。クラークは「洋上大学」という、大型の船に学校施設を備え付け、世界中の青少年を教導して回ろうという途方もない構想に取り付かれ、見事に失敗。その後は山師的な人物にだまされて鉱山経営に乗り出し、破産して一文無しになってしまうのです。
もはやクラークはマサチューセッツの名士ではありませんでした。背負った借金による、いくつもの裁判を抱えた、みすぼらしい敗残者でした。不幸なことにクラークは心臓病にも侵され、寝たきりのような生活を強いられます。1886年3月9日、クラークは59歳でその生涯を閉じます。
現在のアメリカにおいて、クラークはまったく無名の人物です。彼は結局、学者としても軍人としても挫折者でした。
しかし日本での名声はご存知の通りです。そしてクラークを北海道に招いたケプロンとの間にあった「南北戦争」という縁がなければ、「札幌農学校クラーク教頭」の誕生もまたなかったのだと考えれば、日本人として、南北戦争と言うものの存在の大きさを感じざるを得ません。
正会員・小川寛大

2012年5月17日木曜日

公認twitter「南北戦争名言bot」のご案内

全日本南北戦争フォーラム公認twitter、「南北戦争名言bot」をご紹介します。


南北戦争名言bot
https://twitter.com/#!/nanboku_bot

南北戦争の時代に生きた人々の言葉を、日本語で紹介するbotです。
2時間に1つの割合で、戦争中の人々が発した「名言」がつぶやかれていきます。
そのほか、日本のtwitterユーザーの方々がつぶやかれた南北戦争に関する話題なども紹介しております。
お楽しみいただければ幸いです。
事務局

「全日本南北戦争フォーラム」公式サイトの運用を開始します

(マナサス古戦場の大砲群)

はじめまして。全日本南北戦争フォーラムと申します。
本会はアメリカ南北戦争(1861~1865)の歴史を語らう日本人の集いとして、同戦争開戦150周年に当たった2011年に結成されました。
南北戦争はアメリカを真っ二つに引き裂いた内乱であるとともに、同国が経験した史上最大の戦争でした。戦死者数は約60万人。現在の人口規模に合わせると2000万人近くもの人命が失われた戦争であるといわれています。
この戦争の禍々しい記憶こそが、現在のアメリカという国の精神を形作ったともされており、アメリカを語る上で無視することのできない戦争です。
また南北戦争は、ライフル銃や塹壕、金属装甲艦、潜水艦、熱気球など、その後の戦争の姿を大きく変えることになる新戦術、新兵器が多数登場した戦争でもあり、世界の軍事史上からも無視できない戦いです。
しかし日本において、南北戦争は学界においても歴史趣味者の世界においても、ほとんど関心をもたれてこなかった分野です。「日米関係は世界で最も重要な国家関係の1つ」とまでいわれている中において、日本人がこの戦争について深く考えることは、非常に意味のあることなのではないかと考えます。
本会はまさに、「日本人の日本人による日本人のための南北戦争を語る集い」です。
本会の行っていく勉強会やその他の各種行事などの告知や報告、また会員諸氏からのレポートなどを随時このサイトに掲載し、日本における南北戦争への関心が少しでも高まっていく一助になればと思っております。
事務局