2012年6月16日土曜日

リメンバー・エルスワース

エルマー・E・エルスワース
(Elmer Ephraim Ellsworth 1837-1861)

どんな戦争においても、「最初の戦死者」というのは、その民族の記憶に長く残ります。
日本では日清戦争の「勇敢なるラッパ卒」、木口小平や、真珠湾攻撃で死んだ特殊潜航艇の「九軍神」などがその代表です。
南北戦争においても、そうした「語り継がれる最初の戦死者」がいました。それがエルマー・E・エルスワースです。
木口小平にしても九軍神にしても、冷酷に言い切ってしまえば、その名声は「最初に死んだ」という事実によって支えられているのであり、その生涯や戦績に、そうまで特筆すべき事柄はないというのが実際のところです。エルスワースもまた、そういう人物でした。
1837年にニューヨークに生まれたエルスワースは、長じてイリノイ州に移り、法律事務所の下働きをしているような、どこにでもいる若者でした。しかしそのイリノイ州で、エイブラハム・リンカーンという弁護士に出会い、その事務所の手伝いをするようになって、彼の人生は大きく変わります。
1860年にリンカーンが大統領選へ打って出たとき、エルスワースは選対のスタッフとして奔走。リンカーンは、背の低い彼が自分のために一生懸命働く姿を見て、「エルスワースは最も偉大な“リトル・マン”だ」と目を細めたといいます。
リンカーンが大統領となり、南部諸州が合衆国から離脱して南北戦争が勃発するや、エルスワースは故郷に帰って志願兵を募り、ニューヨーク第11連隊を結成します。それを指揮する連隊長は、誰であろう弱冠24歳の「エルスワース大佐」 でした。エルスワースは以前から軍事に関心を持っていて、独学ながら幅広い戦術の知識を身につけていたといいますが、それでもリンカーンの側近という立場でなければありえなかったでしょう。
エルスワースは部下たちに、一般の北軍の軍服ではなく、当時フランス軍が植民地のアフリカ兵に着せていたカラフルで派手な軍服、「ズアーブ」を着せました。こんなところにも、得意満面のエルスワースの高揚感が見て取れます。ありえない指揮官にありえない軍服。ニューヨーク第11連隊は明らかに異様な部隊でした。
開戦直後の1861年5月24日、リンカーンはホワイトハウスから、ポトマック川を挟んですぐそばに見える敵地バージニアのアレキサンドリア地区を眺めていました。するとそこに、 南部連合の国旗がこれ見よがしにはためいているのが目に映りました。
「あの旗が何とかならないだろうか」
いまいましげにリンカーンがそうつぶくと、かたわらにいたエルスワースが顔を高潮させて言いました。
「大統領、私に任せてください!」
それからすぐ、ニューヨーク第11連隊はポトマック川を押し渡り、南部連合の国旗をはためかせる「マーシャル・ハウス」というホテルに向かいました。4人の部下を引き連れてマーシャル・ハウスに押し入ったエルスワースは、難なく屋上の国旗を引きずりおろし、意気揚々と階段を下りました。
しかしその時です。マーシャル・ハウスのオーナー、ジェームズ・ジャクソンがエルスワースの前に躍り出て、ショットガンを発射したのです。エルスワースは即死。ジャクソンもエルスワースの部下にすぐ射殺されたのですが、こうしてエルスワースは、大佐という高位の軍人でありながら、南北戦争の死者第1号となったのです。
エルスワースの死にリンカーンは大きな衝撃を受け、嘆きました。開戦直後の高揚感に沸き立っていたマスコミは、この「若く勇敢な戦死者」を絶賛。北部のあちこちで、エルスワースを讃える記念碑などが建立されます。エルスワースが引きずりおろした南部連合国旗は彼の血で染められ、あちこちで見世物となって、たくさんの人を集めました。
 フランシス・ブラウネル二等兵。彼が着ているゆったりした軍服がズアーブ

後に、ジャクソンを殺したニューヨーク第11連隊のフランシス・ブラウネル二等兵は、議会から名誉勲章を授けられます。ご存知の通り、名誉勲章とは米軍の最高の勲章です。それが「エルスワース殺害犯を倒した」という理由だけで、一介の二等兵に与えられたのです。北部の街には「リメンバー・エルスワース」の声がこだまし、エルスワースの死は、さらなる戦意高揚のため、その後4年も続く戦争に利用されていくことになるのです。
何の実績もない24歳の「大佐」は、こうして「伝説」になりました。戦争というのは結局こういうものなのだと、後世のわれわれに教えてくれるために。
正会員・小川 寛大

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