2012年9月4日火曜日

9月29日、東京都江戸川区でリンカーン大統領に関する勉強会を行います。『Abraham Lincoln vs Zombies』を上映

全日本南北戦争フォーラム主催で、リンカーン大統領についての勉強会を、下記の日程で行います。
正会員の皆様はふるってご参加ください。
部外の方々もご参加になれます。



全日本南北戦争フォーラム勉強会「リンカーン」
日時:2012年9月29日 18時00分~
場所:東京都江戸川区 篠崎文化プラザ 第2講義室
東京都江戸川区篠崎町7-20-19 都営地下鉄新宿線篠崎駅直結 詳細は下記サイト
http://www.shinozaki-bunkaplaza.com/
参加費:正会員は会場使用料金を頭割り負担願います(500円前後を想定)、外部の方は無料
ご参加につき、事前の申し込み、予約などは不要です 

本年秋以降、なんとリンカーン大統領に関する映画が3本も、立て続けに本邦で公開される予定です。リンカーン暗殺事件とその犯人たちの裁判を描いた『声をかくす人』、リンカーン大統領は吸血鬼ハンターだったとする伝奇作品『リンカーン/秘密の書』、そしてスピルバーグによる骨太の歴史大作『リンカーン』です。いかに南北戦争150周年といえど、画期的なことです。われら南北戦争ファンは、これらの公開ラッシュを万全の態勢で迎えねばなりません。
言うまでもなく、リンカーンという人物への理解なくして南北戦争を語ることはできません。しかしその評価は、奴隷解放の聖人から強圧的な独裁者までさまざまで、今に至るまでまったく安定しません。南北戦争を語るにおいて、最も基本にして深遠な存在、それがエイブラハム・リンカーンであるといえます。
今回本会では、その南北戦争の最も核となる人物について、あらためて語り合う場を設けてみたいと思います。勉強会は自由討議の形をとり、銘々がそれぞれのリンカーンを像を語り合う中で、この人物が真に成し遂げたかったものに迫ってみたいと思います。
なお勉強会に先立っては、150周年ブームの中でも恐らく絶対に本邦公開はないであろう、 『リンカーン/秘密の書』の便乗映画作品『Abraham Lincoln vs Zombies』の上映を行います。合わせてお楽しみいただければと思います。

第1部:映画『Abraham Lincoln vs Zombies』上映会
監督:リチャード・シェンクマン
出演:ビル・オバーストJr. ジェイソン・ヒューリー ドン・マクグロウ

2012年 アメリカ映画 日本未公開 90分
(あらすじ)
アメリカ合衆国16代大統領として南北戦争を指揮するエイブラハム・リンカーンのもとに、とんでもない報告が届く。南軍の砦を偵察しに出た騎兵隊が、ゾンビに襲われて全滅したというのだ。その報に半信半疑な周囲をよそに、リンカーンは真剣な覚悟を固める。彼は幼少期、ケンタッキーの田舎で両親をゾンビに惨殺されていた経験の持ち主だったのだ。南軍よりも優先して取り組まねばならぬ人類の敵、ゾンビの討伐に、リンカーンは自らで当たる覚悟を固める。アメリカを揺るがす内乱の中で、大統領は人類社会を救うことができるのか…。
あらすじからして荒唐無稽、支離滅裂。画面から漂う安っぽいB級テイストは、『リンカーン/秘密の書』に便乗するためだけにつくられたような感がプンプンで、見る者をある意味で酔わせます。しかしこんな企画が通ってしまうのが、南北戦争150周年に沸く今のアメリカだとも見るべきでしょう。大きな首刈鎌をふるって自らゾンビ狩りに挑むリンカーンの脇を固めるのは、エドウィン・スタントン陸軍長官、南軍のストーンウォール・ジャクソン将軍、そして若き日のパット・ギャレットやセオドア・ルーズベルトという、噴飯モノの人々です。ここまで阿呆らしいと、これは逆に一見の価値アリとも思えてきます。アメリカ人にとってリンカーンとは何なのか。公開が待たれるスピルバーグの大作とは逆の意味で、この作品はそれをしみじみと教えてくれるのではないでしょうか。リンカーン関係の映画が連続で封切られていく今年の秋以降ですが、本作の日本公開はまず見込めないでしょう。この機に、この会こそで、この世紀の怪作の真価を見極めてはみませんか…?

 第2部:リンカーン勉強会「解放者? 独裁者? それともバンパイアハンター?」
 『Abraham Lincoln vs Zombies』の余韻もそのまま、参加各位のリンカーン像を率直にぶつけ合うところから始めたいと思います。会場にはDVD、CDの再生環境を備えますので、映像、音声史料の持込なども大歓迎です。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
(事務局)

2012年8月31日金曜日

スティーブンス『獄中記』3

5月13日
早朝、アップトン将軍にたたき起こされた。ノドの痛みが引かず、ほとんどしゃべれない状況だというのに。
将軍は人払いをすると、私の今後のスケジュールについて話し始めた。やはり目的地はワシントンとのことだ。逃亡中だった、わがアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デービス氏は逮捕され、クレメント・C・クレイ上院議員も北軍に出頭した。彼らとまとめて、私もワシントンへ護送されるのだそうだ。
ただ将軍は、ワシントンまでどうやって行くのかについては選ばせてくれるのだという。ダルトンからの鉄道で向かうか、サバナまで出て海路を取るかの2通りから選べるとのこと。私は海路を選びたかったが、同じく海路を希望しているというデービス氏と同道するのは嫌だと、率直に将軍に告げた。彼は、軍で手配できる船が1隻しかないので、別便を仕立てることは不可能だが、なるべく離れた船室を割り当てるよう努力すると言ってくれた。この日は彼と話す機会がたびたびあったが、彼は常に礼儀正しく、私は少なからず好感を持った。
昨日と同じく、友人たちが訪ねてきてくれた。ダンカン氏からは、ウィスキーの差し入れがあった。また彼は、ヨーロッパの金融会社に預けてある資産のことを話し、その金について、私が自由に活用できるよう手はずを整えているところだと言った。私は心底うれしかったが、もう私には、そんな大金を必要とする人生は用意されていないだろうと断った。ただ彼からは、それでも自分の望む手続きだけはさせてほしいとの申し出があった。
クーパー少佐が、パウエル医師とシモンズ医師、そして数人の女性たちを呼んでくれた。すぐそばに迫った別れに、彼らは目を真っ赤にしていた。パウエル夫人とスラッシャー夫人が、私のベッドのシーツを清潔なものに取り替えてくれた。
フェリックスが、トゥームズ将軍と別れた後の話を聞かせてくれた。将軍はアメリカを去るに当たって、アーカンソーの政治家だったセバスチャン氏にフェリックスを売ったとのことだ。戦争の終結まで、彼は同氏のコックを務めていたそうだ。セバスチャン氏はメンフィスで健在だそうだが、さすがに奴隷は保有し続けられない。フェリックスも含めてセバスチャン氏の奴隷は、北部の医師であるリトル氏の使用人として働くこととなったそうだ。
フェリックスは私に、ピアースの近況を聞きたがった。ワシントン時代に、私の身の回りの世話をしていた奴隷の少年だ。確かに、フェリックスとピアースは非常に懇意だった。私はフェリックスに、ピアースはもう数年前に自由黒人の身分にしてあげたことを話した。今は確かメーコンにいるはずだとも。ぜひ手紙を書いてあげてほしい、そうすれば彼も喜ぶはずだと付け加えた。
アンソニーが、今後の旅路にフェリックスを同行させてはどうかと提案してきた。しかしそれはリトル医師の判断もあるだろう。それに、私自身の運命が今後どうなるものか、何も分らない。
夕方にアイオワ連隊のピーターズ大佐がやって来た。そういえば戦争前、アイオワ選出のG・W・ジョーンズ上院議員に紹介されたのを覚えている。彼も再会を喜んでいるようで、昔話で盛り上がった。
窓の外には夜の帳が下りようとしていた。私に空を飛ぶ鳥の目があれば、捕われの身である私のみじめな姿から何を見て取ることができるだろう。ああ、見えてきたのは1860年のダグラスの演説だ。私は彼の主張に、恐ろしい何かを感じていたのだ。今の苦境に比べれば大したことではないものの、聞いていて心臓が締め付けられるようだった。あるいは私の今の苦しみとは、そうした主張がはびこっていくのに何の手も打てなかったことへの罰なのかもしれない。
皮肉なことに、そうした回想に浸っている間、私の肉体は少しの安息を得ることができた。そのような回想を頭に浮かべるということをもって、私を南部の裏切り者とする意見もあるかもしれない。しかし私は今、北部に逆らった南部連合を代表する1人として、ここに捕われている。もっとも、私は南部の政府内でほとんど何もしなかった。当時はそれが正しいことだと思っていたのだが、辞表を書いていた方がよかったのだろうか。
午後9時、アップトン将軍が、11時に列車が発車すると伝えに来た。自宅に手紙を書く最後のチャンスだろう。もう少し衣服がほしい旨、書きつづった。これを見た家族が、クローフォードビルまで来てくれればいいのだが。リントンにも自分の状況を知らせる手紙を書いた。
アップトン将軍に、アンソニーの弟であるヘンリーのことについて話した。彼らの母親はリッチモンドにいる。できれば連れて行ってやりたいと。将軍は許可してくれた。ギルピン大尉が私のサインを欲しがったので、それに応じた。11時を少し過ぎたころ、私を乗せた列車は走り始めた。

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Stephen Arnold Douglas (1813–1861)

文中に出てくる1860年に演説したダグラスとは、南北戦争開戦前夜の奴隷擁護派随一の論客にして、リンカーンの最大の政敵だったスティーブン・ダグラスのことです。1860年の大統領選ではリンカーンと激しく争った相手です。ただ自由州であったイリノイ州出身だった彼は、南部人ほど露骨には奴隷制を擁護することができず、この時の主張は率直に言って曖昧模糊かつ複雑怪奇。選挙戦にも敗れます。スティーブンスは生粋の南部人として、ダグラスの主張を非難しているわけです。しかしダグラスのような奇形的政治主張から、スティーブンスはそういうものを生んでしまった南北のどうしようもない対立の根深さに絶望していたのかもしれません。
(翻訳・解説 正会員・小川寛大) 

2012年7月7日土曜日

スティーブンス『獄中記』2

5月12日、ジョージア州アトランタ
これまでの人生の中で、最もあわただしい1日だった。この日を境にして、「容疑者」である私からは、自由というものが完全に失われた。
夜通し走った列車がアトランタに着いたのは朝の8時半。気分は非常にすぐれなかった。すぐにアップトン将軍の司令部に連行されたのだが、そこで意外な人物と再会した。トゥームズ将軍の所有していた奴隷で、私とも親交のあったフェリックスだった。私と彼は、思わぬ再会に共に相好を崩し、力強い握手を交わした。彼は今はコックをしていて、その腕前はなかなかのものと評価されているそうだ。
アップトン将軍はメーコンへ出かけていて留守だった。代わりに司令部要員のギルピン大尉が出てきて、私に司令部の一室をあてがった。大尉はフェリックスに朝食の準備を命じ、すぐにハムとコーヒーが供された。
監視つきながら、街の様子を見て歩くことができた。戦争の爪あとは深く、どこもかしこも滅茶苦茶だった。私の姿を認めて、声をかけてくる何人かの人があった。しかし、彼らのあまりにみすぼらしい姿に胸が張り裂けそうで、私は何も言ってやることができなかった。
アップトン将軍の部下であるアイラ・R・フォスター将軍が私に紙と筆記具をくれたが、勝手に手紙を書いたり、人と会ったりすることは厳禁だという。G・W・リー大佐が私の「管理担当」だそうで、彼とは自由に話をしていいというが、彼と話すことなど何もない。そんな折、知人のジョン・W・ダンカン氏が特別の許可を取って私を訪ねてきてくれた。先ほどの外出で私の姿を見たアトランタの友人、知人の多くが、非常に心配してくれているのだという。
昨夜からのノドの不調が一向に治らない。セイント大尉が軍医を呼んでくれた。軍医は特に心配するほどのことではないという。クーパー少佐が薬として、ウィスキーをふるまってくれた。
私はいざということもあろうと、自宅から590ドルほどの金を持ってきていた。ところが知人のギップ・グリアー氏から、私を心配して20ドルの現金が届けられた。ギルピン大尉も、その好意を受け取っておくべきだという。グリアー氏の手紙には、必要ならばさらに追加で100ドルほど用意できるとあった。いくらなんでも、そこまでは甘えられない。ダンカン氏も、望むものがあれば何でも手配すると言ってくれたが、不足しているものは何もないと答えた。
以上のことは、すべて北軍の監視下で行われた。フォスター将軍は、軍でも私の要望には可能な限り応えると言ったが、私は何もいらないと返した。見ての通り、南部が敗れた今でも、南部の友人たちはここまで私に尽くしてくれる。なぜ北軍からさらにもらわねばならないのだ。
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ロバート・トゥームズ
Robert Augustus Toombs 1810-1885

前回からしばしば名前の出る「ロバート・トゥームズ将軍」とは、スティーブンスと同じジョージア州出身の政治家です。南北戦争開戦前は同州選出の下院議員を務め、南部連合国樹立後は初代国務長官に就任。南部を代表する政治家の1人と言っていい存在でした。
しかし民主党の政治勢力が中心となって建国された南部連合の中にあって、彼は共和党の系譜につながるホイッグ党の政治家として身を起こした存在で、政権内ではしばしば孤立。特にデービス大統領との仲は最悪で、結果、彼は早々に国務長官の地位を投げ出し、南軍の軍人として戦地に出征するのです。彼は北バージニア軍の旅団長として活躍。戦争後半は軍務から離れ、在野の一言居士としてデービス政権の無能を攻撃し続ける生活を送っています。
戦争終結時、彼は北軍による逮捕を恐れてヨーロッパに逃亡。このスティーブンスの獄中記が書かれたころは、アメリカにいません。帰国したのは1867年で、南部の政治の主導権が再び南部人の手に帰していく中、ジョージアの政界を隠然と支配し続ける存在として君臨します。ちなみに、スティーブンスもデービス大統領の政治手法には批判的だった人物で、トゥームズとは固い友情で結ばれていました。
(翻訳・解説 正会員・小川寛大)

2012年7月5日木曜日

ラッパ将軍バターフィールド

ダニエル・バターフィールド
(Daniel Adams Butterfield 1831-1901)

先日開催しました『ゲティスバーグの戦い』上映会の上映作品中、登場人物であるトム・チェンバレンが、メーン州第20連隊が所属する旅団の信号ラッパについて語るシーンがありました。本筋には何ら関係のなかった話ですが、参考のため、そのトムの話に出たダニエル・バターフィールド将軍の小伝を掲載します。本会会員がかつてほかの所で執筆したものを、そのまま転載するものです。

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アメリカ軍の軍隊ラッパに「Taps」というものがある。葬送の際に用いられるもので、「実用音楽」たる信号ラッパながら、ゆったりとした哀愁のある名 曲である。このラッパ譜ができたのは南北戦争中のことなのだが、作ったのは軍楽隊員ではなく、ダニエル・バターフィールドという北軍の将軍だった。


バターフィールドの父は、今なおアメリカに存続する大企業アメリカン・エクスプレスの創設者で、1831年ニューヨークに生まれた彼も、大学を出てその会社に勤めるビジネスマンであった。
1861年春、そんな彼は南北戦争の勃発と共に北軍に志願。民兵団に参加していたくらいで、特段それまで軍事教育のようなものは受けたことが無かった彼 だが、その年の秋にはトントン拍子で旅団指揮官たる将軍(准将)までになっていた。もっともこれは特に怪しむことではない。当時のアメリカには常備軍が 10,000人程度しか存在しておらず、開戦に際し急ごしらえで軍を仕立てるために、土地の名士などを能力、経験抜きで高級将校にして従軍させるような事 例が多くあったのである。そういった将校のほとんどは使い物にならなかったのもまた事実なのだが、バターフィールドは、J・L・チェンバレンやS・ムルホ ランドらと並ぶ、そういった中の数少ない例外の1人だった。
1862年6月、北軍のポトマック軍司令G・マクレランは、隷下部隊に対しヨークタウン半島を経由しての南部首都リッチモンド攻略作戦を下令。い わゆる半島戦役、「リッチモンド手前7日間の戦」が始まる。しかしこの作戦は失敗だった。南軍の中核、北ヴァージニア軍を完全に掌握した名将R・E・リー と、その片腕「ストーンウォール」・ジャクソンの巧妙な防御作戦の前に、マクレランは結局軍を退かざるを得ない状況に追い込まれてしまうのである。
翌7月、半島戦役に参加していたバターフィールドと彼の部隊は、ヨークタウン半島から撤退してヴァージニア州のハリソンズ・ランディングに駐屯してい た。彼自身はこの戦役の中で、後に名誉勲章を授与されるほどの働きを見せて奮戦したのだが、多くの部下を失った悲しみが、彼と部隊とを包んでいた。半島戦 役に散った将兵の数は、両軍合わせて約11,000。バターフィールドは部隊のラッパ手、オリバー・ノートンの補助を受けながら、彼らを追悼するための 曲、「Taps」を作曲。後、軍上層部にもその出来のよさが認められて全軍で用いられるようになり、この21世紀の現在に至っても「Taps」はアメリカ で一番有名なラッパ曲として健在である。
バターフィールドは後、軍司令部より現場から引き抜かれ、参謀としてゲティスバーグ戦やアトランタ戦などに参加。上層部からの覚えは相当めでた かったようだが、一般将兵からは「リトル・ナポレオン」のあだ名を賜っていた。褒め言葉ではない。尊大で口うるさいところから付けられた名だという。また 「Taps」以外にもいくつかのラッパ曲を作曲していたりしたらしい。
戦後は一時募兵局でデスクワークにいそしんでいたが、やがて軍を退職してビジネス界に復帰。ただ軍との関係は終生続き、高名な将軍たちの葬儀委員長など をしばしば買って出ている。1901年に死去するが、その墓はなぜか、終生一度も正規の軍事教育を受けたことが無いにも関らず、ウェスト・ポイント、米陸 軍士官学校にある。
(正会員 小川寛大)

ゲティスバーグ戦149周年 映画『ゲティスバーグの戦い』上映会報告

「諸君、ここが連邦の左端だ。決して退くな!」
(『ゲティスバーグの戦い』リトル・ラウンド・トップの1シーン)

先日告知させていただきましたとおり、7月1日のゲティスバーグ戦149周年記念日に、東京都新宿にて映画『ゲティスバーグの戦い ‐南北戦争運命の三日間‐』の上映会を開催いたしました。
突然の告知で、かつ4時間以上もある大作であり、人はほとんど来ないだろうと事務局では考えていたのですが、結果として会員、非会員の方あわせて5人もの方々に集まっていただき、盛大裡に終わらせることができました。正会員として登録していただいた方も1人おられ、これで本会は7人体制となりました。大変ありがとうございます。
上映会終了後、正会員3人にて、場を上映会場そばの喫茶店に移し、今後の会運営について話し合いを持ちました。その結果、ゲティスバーグ戦150周年となる来年、会として訪米団を組むことを正式に決定いたしました。訪米時期などについては今後さらにつめ、年末から年明けにかけて正式発表したいと思いますが、多くの方々とともにアメリカ訪問ができれば、これ以上ない幸せと思います。
その後、「リーはやはり名将ではない」「スチュアートの失態と騎兵戦の現実」「アイリッシュ旅団は本当に悲劇の美談なのか」「対英仏外交戦からみるマクレランの無能」「南北戦争をダメにしたナポレオン信仰という病」といった懇談を交えて散会といたしましたが、ご参考のため、その懇談の一部を文字化して提示してみたいと思います。このような会話を楽しんでいる集団です。なお、この書き起こしについては、事務局に一切の文責があります。

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A「映画『ゲティスバーグ』は、やはり南軍側の主人公がロングストリートだから、リーをそう評価した描き方をしていない。むしろ見ようによっては愚将とでもいえるような感じになっている」
B「ただピケット・チャージはやはり愚策だから。なんであんなことをしてしまったのか」
C「そう、あれをやってしまったという事実がある限り、リーは決して名将ではない。そもそも、彼はアンティータムも失敗している。北部へ遮二無二攻めるという戦略は、彼が企図して推進したことなんだから、それに失敗している時点でね。南部に欠くべからざる人だったし、素晴らしい人格者なんだが、やはり名将というのとはちょっと違う」
A「あせっていたんだろうか。そもそもゲティスバーグ2日目で、本来の戦略的意図は完全に破綻しているわけだし」
C「だったら2日目で軍を退くという選択肢もあったんじゃなかろうか。北部でそれをやったら軍司令官解任だろうが、南部では許されたと思う」
B「いや、リーはもうこれを逃したら、南部が攻勢に移る機会はないと考えていたはず。何かやらなきゃいけなったんだろう」
C「南軍の中では、際立って異様な戦略を持っていた人だから」
A「やはりそこであせって退けなくなったのか」
B「にしても中央突破でピケット・チャージは筋が悪すぎる」
A「スチュアートが勝手に戦場を離れていたという点、映画ではそう強調されてはいなかったが、重要なポイントだ」
B「軍の目である、重要な斥候部隊が完全に行方不明だったんだから」
C「ただ南軍の部隊に相互連絡がないというのは、もうお家芸だから。半島戦役では斥候部隊どころか、重要な実戦部隊が戦場で突然行方不明なんてことがあったし。ファースト・ブルランだって…」
B「あれは南軍の大勝とされてるけれども…」
C「あの戦闘の決着したその時点で、南軍側に『われわれは勝った!』と正確に把握してた人間なんていない。部隊間の横の連絡は何もないし、上級司令部に情報を上げる者だっていない。単に『北軍が撤退した』というだけで、南軍側は自分たちが勝ったことも分かってなかったはず。ましてや追撃なんてとても…」
A「でも北軍はわりと初期からそういう点がきちんとしている」
C「よくも悪くも役所的、官僚的な陣営なんだ」
B「あと、南軍というのは、結局土地の名士である奴隷農園主が、地元の若い者を集めて結成した、悪い意味での『村の消防団』みたいなもの。それで指揮官は金持ちのボンボンで、まあ社会性がない。でも北軍の指揮官というのは、戦争が始まる直前まで、弁護士だったり銀行家だったり、鉄道会社に勤めてたりと、きちんとした社会経験のある人が多い」
C「社会人経験って、こういうところでも大事なんだということか」
A「ところで『Gods & Generals』もそうだが、この映画シリーズはアイリッシュ旅団の扱いがなかなかいい。ピケット・チャージを支えきったのは、ニューヨーク州第69連隊だったような描き方だし」
B「『Gods & Generals』ではフレデリックスバーグ戦が泣けた。南北に分かれた同じアイリッシュ部隊が泣きながら撃ち合うという…」
C「まあ、映画としてはね、なかなか泣かせる展開だけれども、あそこまで美化できるものかなあというのはある。もともとアイルランドには、アルスター地方(北アイルランド)とそれ以外の地域の、壮絶な地域間対立があった。また、ニューヨーク州第69連隊を中心としたアイリッシュ旅団は、トマス・マハーという、後のIRAの系譜にもつながる革命家が率いていた部隊で、非常に政治的な背景がある。アイルランド本国人だって、みんながマハーのような人物を肯定しているわけじゃない。ジャガイモ飢饉によるアイルランド移民の大流出というのは、そういうアイルランド国内の対立構造を、他国にそのまま移植してしまったような現実もあるわけで…」
B「フレデリックスバーグで撃ち合ったのにも、何かそれなりの理由があるんじゃないかと」
C「そういうこと。ちゃんと調べなきゃいけない話だが、単なる悲劇の美談にしていいのかというのはある」
A「アイルランドつながりということで、イギリスの話題を。映画に南軍陣営にいるイギリスの観戦武官がいたけれども…」
B「まあ、これは後知恵で言うわけだが、英仏が南部の独立を承認することなんて、絶対にありえない」
A「そうだろうね」
C「それにはまったく同感なんだが、でもやっぱりそれは後知恵。当時としては、やっぱりリンカーンは英仏の動向が怖くて仕方なかったと思う」
B「それは確かに」
C「だからとにかくこの戦争を早急に片付けなくちゃいけないと。兵隊の練度とか、純軍事的条件とか、度外視にしてもいい。とにかくリッチモンドめがけて、矢継ぎ早に兵隊の血肉をぶつけて、南部を一刻も早く叩き潰さないとというのがあった」
B「それゆえのあの犠牲と」
A「だからやっぱり、マクレランは評価されないわけで」
B「グラントのようなのが、リンカーンにとっての英雄だったわけだ」
C「マクレランというのは、本当にナポレオンになりたかったのかな」
A「それはそうだと思う。これはマクレランに限らず、南軍側の将軍にも多いんだが、とにかくやたらと機動戦をやりたがる」
C「ああ、フランク(側面)、フランクと…」
B「ナポレオン型だね。ただ、南北戦争でそれはほとんど成功しないんだけど」
A「とにかく状況がナポレオン時代とはまるで違う。政府のあり方も違うし、武器の性能も違う。国土のあり方だって違う」
B「そういう何もかも違う場所で、ナポレオン流の精緻な『軍事技術ショー』をやろうとした将軍がたくさんいて、そして彼らはまったく成功できずに、えらい目にあって表舞台から消えていく」
A「ナポレオン信仰というのは、南北戦争において罪深いと感じるね」
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(事務局)

2012年6月28日木曜日

スティーブンス『獄中記』1

 (Alexander Hamilton Stephens 1812-1883)

アレクサンダー・スティーブンスはアメリカ連合国の副大統領で、「奴隷制は神の認める絶対善である」とまで主張し、南北戦争を戦う南部の精神的支柱として活躍した大政治家でした。
しかし彼は、貧しい家に生まれ、自分の才覚で成り上がって奴隷農園主となり、南部ジョージア州を代表する政治家に成長していったという、世襲の大農園主が多かった一般の「南部貴族」とは少し違った経歴の持ち主でした。よって彼は、政治信条は違えども、ともに貧困階級から成り上がったリンカーンとは実に馬が合い、また南部の大統領、ジェファーソン・デービスとは、ほとんど犬猿の仲という人物でした。
南北戦争終結後、彼は北軍に逮捕され、約半年間、ボストンの監獄で生活を送ります。かれはその間、獄中記をしたためており、これは南部の政治家が戦後にどのような心境に至っていたのかを知る、一級の資料とも言われています。
本会ではこの投稿を皮切りに、その獄中記を少しづつ翻訳し、掲載していきたいと思っております。南北戦争史に関心のある皆様方に取り、何かの参考になれば幸いです。

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1865年5月11日(火)、ジョージア州リバティーホール
心地よい眠りの後、かなり早くに目が覚めた。とても清々しい朝だった。アセンズ郡から、ヘンリー・フル氏の子息、ロバートが訪ねて来ていて、昨夜からわが家に泊まっていた。
朝食の後、何人かに手紙を書いた。それからロバートとともに、トランプに興じていた。その時だった。奴隷のティムが部屋に駆け込んできて、こう叫んだのだ。
「旦那様! ヤンキーが来ます! もうたくさんの兵隊が町に侵入していて、軍馬の声や銃剣のガチャガチャする音が響き渡っています」
いずれこうなろうとは、うすうす感づいていた。 南部は負けたのだ。私はロバートに言った。
「彼らはすぐここに来る。私物を整理しておこう」
そう言い終わらないうちくらいに、私の眼は、わが家に近付いてくる北軍の将校をとらえた。家のドアは開いていた。将校はそのまま家に入ってきて、私に言った。
「スティーブンスか?」
そうだと返事をすると、さらに念を押された。
「アレキサンダー・ハミルトン・スティーブンスで間違いないな?」
それが私の名前である、と答えた。
将校が続けた。
「お前を逮捕するよう命令が出ている」
彼に名前を問うた。アトランタに駐屯するアップトン将軍配下の、アイオワ州第4騎兵連隊所属、セイント大尉で、ここにはネルソン将軍の指令で来ていると言う。彼は私に命令書を提示した。私とともにロバート・トゥームズ将軍も捕らえよとの内容だった。
セイント大尉の任務は、私をクローフォードビルまで護送することだという。それからどうするのか。ワシントンへか。アップトン将軍の司令部に連行されるのか。
こうなることはとっくに予想していた。自分から出頭すべきかともさえ思っていた。そうセイント大尉に告げ、私の“旅路”はどのようなものになるのだろうかと聞くと、私を護送するための列車を用意しているとのことだった。
私はティムを呼び、カバンに着替えを詰めて持ってきてほしいと頼んだ。
「分かりました」
そう答えたティムに、どれくらいの時間で用意できるか問う。「数分でやります」との即答があった。同じ奴隷のハリーもやってきて、非常に驚き、そして悲しんでいた。
セイント大尉から、希望するなら奴隷を1人帯同してもいいとの言葉があった。そこで彼に、私は最終的にどこへ連れて行かれるのか問うた。「最初はアトランタだが、最終的にはワシントンだろう」との答だった。ならばとアンソニーを呼んだ。彼はリッチモンド出身で、母親はまだ同地にいる。ワシントン方面にも詳しかった。すぐに出発の用意をするよう命じた。
セイント大尉は従卒とともに、朝食をとるため一時わが家を退去した。そのほっとした束の間に、私は兄弟のジョンとその家族のことを思い浮かべた。何の知らせもなく私が彼らの前から消えたら、彼らはどう思うだろうか。
セイント大尉は10時に戻ってきた。そして「15分以内に出発するぞ」と言う。友人や奴隷たちの口から嗚咽が漏れた。私の心も、涙であふれた。
私はセイント大尉に、兄弟へ手紙を書く許可を求めた。幸い、彼はそれを許してくれた。ジョンとその家族は、1週間ほど前に私を訪ねてきて、2日前に帰ったばかりだった。以下はその手紙の写しである。

親愛なる兄弟よ。
アイオワ州第4騎兵連隊のセイント大尉が、私を逮捕しにやってきた。トゥームズ将軍もともにだそうだ。アトランタを経て、おそらくワシントンへ連れて行かれる。
またお前に会える日が来るのかどうか、今はまったく分からない。だが、神はどんなことがあろうとお前を支えてくれるだろうし、また私自身も救ってくださるだろうと信じる。神の愛が、お前とその家族を救ってくださいますように。また私自身も、お前とコスビー、ディック、ジョンソン、およびすべての友人たちを常に思っている。
もうこれ以上書く時間がない。愛している。
お前の最も親愛なる者
アレクサンダー・H・スティーブンス

この手紙を奴隷のリントンとハリーに預け、私が去ったら、すぐにスパルタのジョンへ送るよう命じた。
しかしセイント大尉はこの段になって、私が手紙を送ることに反対しだした。私は彼に手紙の文面を見せ、決しておかしなことを書いているのではないと証明したが、それでも彼の考えは変わらなかった。私は泣いてしまいそうだった。あて先が違っていたらどうだったろう。たとえば妹夫婦とか、友人たちとか。
護送列車の周りには、多くの人が集まっていた。皆、悲しそうな表情をしていた。嗚咽の声も聞こえた。
私が駅の待合室を出ると、列車は数百ヤードほど後退し、何人かの兵士が乗り込んだ。私が逃げ出さないように見張る役目を負っているらしい。私が列車に乗り込み、出発する段になると、その時の何人かは列車から降りた。列車ははそのまま、バーネット郡まで止まらずに走った。そこで汽車を取り替え、ワシントン郡へ向けて再び走り出した。
しかし4マイルほど走ると、列車のスピードが突然落ちた。列車の責任者は、われわれに下車するよう求めた。その地点のそばにあった小屋が急きょ接収され、私はそこに連れて行かれた。約20人の兵士が、私の監視要員として周囲を固めていた。
セイント大尉が「1時間ほどで戻る」と言い残し、どこかへと去った。しかし彼は日が暮れても戻らなかった。そして突然、豪雨になった。こんな雨は数週間ぶりだった。
小屋の主人が、肉のフライとコーン・ブレッドを出してくれた。「これができる精一杯で…」と彼は言った。私は空腹ではなかったのだが、その心遣いが非常にうれしく、ありがたくいただいた。
夜になっても大尉は戻らなかった。主人は今度は夜食を出してくれた。彼の夫人も非常に優しい人で、私は彼らの心遣いに本当に申し訳なくなった。
深夜と言える時間になって、汽車の蒸気機関が再びけたたましい音を立てるのが聞こえた。セイント大尉の「外出」が奏功したのだろうと私は思った。
大尉が私の前に戻ってきたので、いったい何か起こっていたのかと問うたが、彼はまともに答えようとせず、私に再び列車へ乗るよう命じた。アンソニーも、再び荷物番だけに専念できるようになった。ただ雨のおかげで大地は濡れそぼっており、私の靴もぐっしょりと湿っていた。雨は冷気を運んできて、私はノドをやられ、ひどいしわがれ声しか出なくなってしまった。
電車は一度バーネット郡まで戻るようだった。セイント大尉に、トゥームズ将軍とはもう会ったのかと問うたが、「そんなわけないだろう」と、実にぶっきらぼうに返された。その態度は非常に無礼なものに感じられ、私はそれ以上、彼と話をする気をなくした。
バーネット郡に着いたのは11時だった。そしてすぐにまた出発しなおし、夜通しかけてアトランタを目指すという。小休止のため列車を降りると、何枚かの列車の窓ガラスが割れているのが目に入った。ぐっと冷え込んでいた夜だったが、心まで寒くなった。
(翻訳 正会員・小川寛大)

2012年6月24日日曜日

ゲティスバーグ戦149周年記念 映画『ゲティスバーグの戦い』上映会を開催します(7/1)

南北戦争の天王山といわれるゲティスバーグの戦いは、1863年の7月1日から3日まで、ペンシルバニア州のゲティスバーグで行われました。今年はその149周年の年になります。
本会ではそれを記念し、7月1日、同戦役を描いたスペクタクル映画『ゲティスバーグの戦い』の上映会を東京都内で開催します。ご関心のある方々のご参加をいただければ幸いです。

全日本南北戦争フォーラム主催 『ゲティスバーグの戦い』上映会
日時:2012年7月1日 13時15分~
場所:東京都新宿区 喫茶ルノアール 新宿区役所横店 2号会議室
東京都新宿区歌舞伎町1-3-5 相模ビル JR新宿駅東口徒歩7分 新宿区役所真裏 詳細は下記サイト
http://standard.navitime.biz/renoir/Spot.act?dnvSpt=S0107.6&cateCd=
参加費:参加者全員で、は会場使用料金の頭割り負担をお願いします(1,000円前後を想定)

 〈内容〉
『ゲティスバーグの戦い ‐南北戦争運命の三日間‐』
監督、製作、脚本:ロン・マックスウェル
製作総指揮:テッド・ターナー
撮影:キース・ヴァン・オーストラム
音楽:ジョン・フィリッツェル/ランディー・エデルマン
出演:ジェフ・ダニエルズ/トム・べレンジャー/マーチン・シーン、他
上映時間255分

(あらすじ)
3日間で5万人の死者。悲惨極まりないアメリカ南北戦争の歴史の中でも、とりわけ凄惨な戦場となったゲティスバーグの戦。そしてこの戦はまた、南北戦争の重要な分岐点でもあり、リンカーン大統領の名演説、「人民の人民による人民のための政治」の言葉とともに、多くの人々の胸に刻みつけられている、世界史的な一大事件でもあります。
この映画は、そんなゲティスバーグの戦を描いた、ミッチェル・シャーラのピューリッツァー賞受賞小説『The Killer Angel』を原作に、精巧な歴史描写をすることで知られるロナルド・マックスウェル監督の下作られた、一大巨編です。
南部の独立をかけて戦う名将リー、ロングストリートに対するは、要衝リトルランドトップを守りきった、北軍の英雄チェンバレン大佐。「運命の三日間」を4時間以上もかけて描いたこの作品は、忠実な歴史描写に最大限の力を入れ、特に「歴史再現者」と呼ばれるアメリカの南北戦争研究家たちのボランティア協力を得て再現した、数千人規模の横隊突撃シーンは圧巻です。
現在マックスウェル監督は、『Gods and Generals』(2003年公開映画)も含めた「南北戦争3部作」を制作中ですが、この映画はその第1弾となった作品で、南北戦争研究家の間でも大きな話題を巻き起こした傑作として知られています。
アメリカ南北戦争、その戦争を象徴する一戦といっても過言で無い戦を描いた「ゲティスバーグ」、この機会に、是非ご覧下さい。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。
事務局